『NOPE/ノープ』(2022) ネタバレ解説 感想|映画の原点とスペクタクル

解説・感想
スポンサーリンク

作品情報

制作年2022年
制作国アメリカ
監督ジョーダン・ピール
出演ダニエル・カルーヤ
キキ・パーマー
スティーブン・ユァン
上映時間130分

ポッドキャスト配信中

本記事の内容はSpotify, Amazon Music, Apple Podcast, Google Podcastにてポッドキャストも配信中です。

あらすじ

舞台は南カリフォルニア、ロサンゼルス近郊にある牧場。亡き父から、この牧場を受け継いだOJは、半年前の父の事故死をいまだに信じられずにいた。
形式上は、飛行機の部品の落下による衝突死とされている。
しかし、そんな”最悪の奇跡”が起こり得るのだろうか?
何より、OJはこの事件の際に一瞬目にした飛行物体を忘れられずにいた。
牧場の共同経営者である妹エメラルドはこの飛行物体を撮影して、”バスり動画”を世に放つことを思いつく。
やがて起こる怪奇現象の連続。
それらは”最悪の奇跡”の到来の序章に過ぎなかった。

引用元:公式サイト

ジョーダン・ピール監督最新作です。
製作作品で言えば昨年『キャンディマン』(2021)やもう少し前には『ブラック・クランズマン』(2018)などもありましたが、製作、脚本、監督全てを手掛けた作品で言えば『ゲット・アウト』(2017)、『アス』(2019)に続き三作目になります。

ジョーダン・ピール作品といえば、製作で関わっている作品も含めて言えば「人種」が最も大きなテーマになっており、脚本と監督も務めた『ゲット・アウト』『アス』について言えば、「人種」を「ホラー映画」の文脈に落とし込むいわば「人種ホラー」という映画のイメージでしょう。

もう一点大きな特徴としては、「設定のぶっ飛びっぷり」ではないでしょうか。
初監督作品ゲット・アウト』では、現在の技術では実現できない謎の医療技術が登場。
次作『アス』では自分と同じ姿をした別の人間が地下に暮らしていたというさらにぶっ飛んだ世界が展開されました。

設定がぶっ飛んでいる、というか少々強引な世界観のため、映画終盤でタネ明かしをしてくれるのは良いのですが、そのタネも飲み込みにくいという点で、ジョーダン・ピール作品を観てM・ナイト・シャマラン作品を連想する人も少なくないのではないでしょうか。(ジョーダン・ピールもM・ナイト・シャマランもどちらも『トワイライトゾーン』の影響下にあるので当然ではありますが)

さて、そして今回の『NOPE』ですが、宣伝やポスタービジュアルを見て想像されるのは「UFO」や「エイリアン」的なSFのイメージで、これまでの割としっかりホラーっぽい雰囲気は少なそうに感じます。
というわけで、今回ジョーダン・ピールが何か新たなことに挑戦したらしいことが想像される本作ですが、実際どうだったのか、ジョーダン・ピールが仕込んだメタファーやオマージュに触れながら考えていきたいと思います。

エンタメ性は最も高くなった

©Universal Pictures.

今回の『NOPE』ですが、過去二作と比べて最もエンタメ性の高い作品になったのではないでしょうか。
過去作以上に先の読めない読めない展開で、こちらが「UFO」(Unidentified Flying Object:未確認飛行物体)だと思っていたものは実は「UAP」(Unidentified Aerial Phenomena:未確認空中現象)で、なんと生物だったという急展開がありましたがそれはあくまで中盤

終盤は生物であると判明した「JJ(Gジャン)」とのバトルになるというスペクタクル(多分本作のキーワードのひとつ)展開で、この終盤に関しては本作の予告や宣伝だけを見て本編を観る前からあのクライマックスを想像していた人間はいないと思います。

過去のハリウッド映画の名作(というか大体スピルバーグ)からのリファレンスも多くありました。
終盤に主要メンバーが集結して怪物に戦いを挑むアツい展開は言うまでもなく『ジョーズ』(1975)を思い出させるし、JJ周辺の全体的な雰囲気としては前半は『未知との遭遇』(1977)、人間のコントロールの及ばない生物との攻防戦などは、ジョーダン・ピール本人も言及している通り『キング・コング』(1933)や『ジュラシック・パーク』(1993)などの影響があるでしょう。
例の「Gordy’s Home」のくだりでは『E.T.』(1982)っぽいオマージュ、あるいは『猿の惑星』(1968)なんかも連想するあたりでしょう。

あとは日本の観客であれば誰もが嫌でも気付いてしまう『AKIRA』や『新世紀エヴァンゲリオン』といった日本カルチャーの影響も強く反映されていました。

このように影響元の作品を挙げていくだけでも、本作がいかに思い切りエンタメに振り切っていかが分かると思います。

また、爆笑とまではいきませんが笑いどころもなかなか上品で良かったと思います。
特に主役のダニエル・カルーヤによるローテンション演技がたまに面白く、映画後半車で家に向かうOJの頭上にJJがやって来た時、OJが頭上を見た瞬間「無理無理」とあくまで冷静なテンションで絶望するところはかなり好みのユーモアでした。

見事な夜景表現

©Universal Pictures.

さらに本作の見どころというと、「声に出して読みたい人名トップ10」には絶対入るであろうホイテ・ヴァン・ホイテマによる夜景の表現でしょう。
アグア・ドゥルセという人工的な明かりがほとんどないロサンゼルスの田舎の夜の風景を、撮影用の照明を焚きながらではなく、自然に夜の景色を見ているような画作りを実現するため、新たな映像表現を取り入れています。
(と言っても『アド・アストラ』(2019)で既に同じようなことはやってたらしい)

というのが、リグに赤外線撮影とフィルム撮影用の計2台のカメラを搭載して、レーザーによって両カメラの画角を正確に合わせた状態で同時撮影し、ポストプロダクションで赤外線撮影した映像に日中フィルムカメラで撮影した映像の情報を合成することで夜間の映像を作り上げる、というものです。

この技術によって、自然光のみで撮影できる日中に夜間の映像を撮影することが可能になり、カメラで撮影している感の無い、自然な夜間の映像を作り上げることに成功しています。

また、本作のサスペンス演出において極めて重要であった「暗さ」の調節も絶妙であり、ギリギリ見える、ギリギリ見えないというような演出も光っている映画なので、この映像表現の巧みさも本作の魅力の一つでしょう。

「Jean Jacket」の造形について

©Universal Pictures.

本作の最重要キャラクターである「Jean Jacket」(通称”JJ”)の造形は皆さんどう思われましたでしょうか。
特にクライマックスで露わになる本来の姿には少々賛否が分かれそうです。

前半の円盤型状態に関しては素晴らしい造形だったと思います。
「UFO的な乗り物かと思ったらそういう生き物だった」展開というのは、「スター・トレック」や「ウルトラマンレオ」などで既に登場してきたアイデアではあります。

しかし今回のJJについて言えば、あのぽっかりと開いた真っ暗な穴が非常に不安になる怖さを掻き立てるし(底の見えない真っ暗な大きな穴は怖い)、何より画期的だったのは、JJが風を切っている音もしくはUFO的な移動音かと思いきや、それは全て食べられた人々の悲鳴だったという「あの音」でしょう。

移動音かと思っていたら悲鳴だと気付いた瞬間はゾッとするものがありました。

この終盤の最終形態は、クラゲなどの奇怪な海洋生物の造形イメージをベースとし、あとはジョーダン・ピールが既に認めているように『新世紀エヴァンゲリオン』の使徒の影響もあるとのこと。

個人的に最終形態のデザインはあまり好みではないなあと思いましたが、しかしそれ以上にJJの全貌が明らかになる終盤において、舞台が天気の良い真っ昼間だったことをとにかく賞賛したいところです。

クライマックスの際に、時間設定を夜にして、映像を暗くして見にくくすることでCGのクオリティをごまかすというのは、スケールの大きいクライマックスあるあるですが、本作はしっかり真っ昼間、そしてJJの全貌をきっちり見せてくれています。

この映像的なストレスの無さが、本作のクライマックスのアゲ感の要因の一つになっている気がします。

映画文化における黒人の存在

©Universal Pictures.

ここからは本作のテーマ的な話題に入っていきます。

まず一点としては、ジョーダン・ピール作品を語るうえでは決して外せない「人種」についてでしょう。
今回の人種に関する話題は、「映画という文化の中における黒人の扱い」だったと思います。
具体的に言えば、本作は全体として「白人中心で紡がれてきた映画文化の歴史やその原点であるスペクタクルを、黒人を中心に据えた物語で改めて描き、それによってこれまで映画という文化の中で蔑ろにされてきた黒人の存在を今一度思い出させる」という目的意識があったように思います。

本作は大まかなジャンルで言えばおそらく「ネオウエスタン」であり、西部劇といえばまさにアメリカ映画の原点とも言えるジャンルです。
白人によって作られていた白人のためのジャンルであり、アメリカ映画の原点である西部劇を、黒人中心の物語によって新たに語りなおしているのです。
クライマックスではOJが愛馬を乗りこなし、OJが馬を駆るシーンでいかにも西部劇っぽい劇判が流れるという非常にアガる展開も印象的でした。

また、厳密には黒人ではないですが「Gordy’s Home」におけるジュープの生存というのもこのテーマに基づく展開でしょう。
シットコムの「Gordy’s Home」においてジュープの役柄としては、取って付けたような多様性の配慮により姉弟の弟として唯一のアジア系キャスティング。
劇中で一部始終が見られるエピソードでは、姉が豪華なプレゼントをすることで盛り上がるための前振り役に徹しています。

「Gordy’s Home」におけるこのジュープの立ち位置というのが、映画文化における黒人(有色人種)の立ち位置を象徴しています。

最後に起こる惨劇では、机の下に隠れてゴーディに怯えながらも目の前で直立している靴を目にして呆気にとられているジュープにゴーディが気付き、これまで殺戮の限りを尽くしていた彼がジュープにだけは好意的な態度を見せ、これでもかというわかりやすさで『E.T.』をオマージュして見せます。
その直後、ゴーディは人間によって射殺されてしまうわけですが…

この「Gordy’s Home」周りに関しては様々な見方や解釈が可能だと思いますが、一つの解釈としては「映画史における有色人種への救済」という見方ができると思います。
「マジカルニグロ」という言葉が存在するように、黒人はもちろん有色人種といえば、人種的なステレオタイプに基づいた得意技を持っていたりして、主役である白人をサポートして去っていくようなことが常だったわけですが、この「Gordy’s Homeの惨劇」ではそんな脇役のアジア系俳優ジュープだけがサバイブするのです。
シットコムというアメリカのテレビ文化を象徴するようなジャンルでこのような展開を用意しているのも気の利いたあたりでしょう。

しかし、本作が回帰する原点はこうしたジャンル的な話題だけには留まりません。
映画というメディアの誕生にまで遡って見せるのです。

それが言うまでもなく、主人公OJの妹エメラルドによる、映画の始まりとして有名なあの連続写真に関する説明です。
スタンフォード大学の創立者として有名なリーランド・スタンフォードが、馬が走っている時に四本の脚すべてが同時に地面を離れる瞬間があるかどうかについて友人と賭けをして、それを確認するために写真家のエドワード・マイブリッジがトラックに12台(あるいは24台)のカメラを乗せて撮影した。
という言い伝えがある。
でおなじみあの『動く馬』において、あの馬の騎手が黒人である、つまり映画誕生の瞬間からずっと黒人は映画文化の中にいたのだ、という主張が展開されます。

実際のところあの騎手の素性は不明らしいですが、写真を見る限り確かに黒人なのでしょう。
私自身あの連続写真自体は何度も見たことがあったものの、騎手が黒人であるという点はずっと見逃していました。
エメラルドの言う通り、確かに映画というメディアが誕生した瞬間から黒人はその中心に間違いなくいたのですね。

「映画を撮る」ということと「スペクタクル」

©Universal Pictures.

「黒人キャストによる映画で原点回帰することで映画文化における黒人の存在を再確認させる」というテーマを踏まえて本作を観ると、映画中盤から終にかけては非常に感動的な物語であることが分かります。

白人であるエドワード・マイブリッジが馬という動物を撮影した写真が映画というメディアの原点になっているのが現実に残っている映画の歴史です。
対してこの『NOPE』という映画は、黒人でありあの馬の騎手の子孫(自称だが)であるエメラルドが、JJという動物を写真で撮影するという物語です。

エメラルドの口からセリフによって「映画文化の始まりから黒人はそこにいた」と主張するだけには留まっておらず、この『NOPE』という映画の物語が映画というメディア誕生の歴史をなぞり、エンターテインメントとして昇華することで、この作品自体も「映画文化の始まりから黒人はそこにいた」と大きな説得力を持った主張として現れます。

この点に関して非常に示唆的な演出を挙げると、JJを撮影することに成功するのはデジタルカメラでも、IMAXフィルムによる撮影でもなく、エメラルドの手によって行われるインスタントカメラ撮影であるということ。
物語の終わり方、JJへの勝利を表す演出がJJを倒した瞬間ではなく、JJの映った写真が映されるショットで幕を閉じるようになっているというあたりでしょう。

そしてもう一点本作の重要ポイントなのが、映画における「スペクタクル」についてです。
このあたりについてはスティーブン・ユァン演じるジュープの行動と顛末を見るのがわかりやすいでしょう。

ここで言う「スペクタクル」とは、映画冒頭におけるナホム書3章6節からの引用の通り「見世物」の意味になります。

ジュープという人は、劇中で語られる通り「Gordy’s Homeの惨劇」を生き延びた人物です。
先ほどは彼のサバイブを有色人種への救済という表現をしましたが、ジュープ自身はと言うと、このサバイブが彼の驕りへと繋がってしまいます。
あの惨劇を生き延びたジュープは、唯一の生き残りとして現場にあった品物を集めて展示(=スペクタクル化)しており、自己の身に起きた不幸な出来事を商売道具として利用してしまうのです。
ジュープは既にこのようなスペクタクル化による成功体験をしていたため、OJよりもっと前からJJの存在に気付いていた彼は、JJの存在を自身のショーとして商売道具にしようとします。

その結果、案の定というか期待通りというか、彼はまんまと破滅してしまうわけですが、このジュープの行動こそがまさに「映画」というメディアそのもののあり方を表しています。

つまり、「JJの存在」という”最悪の奇跡”でさえもスペクタクルとして消費しようとしたジュープの行動は、どんなに不幸な出来事であっても映画というスペクタクルとして消費可能にしてしまう「映画」というメディアが行っていることそのものだということです。

こうしたスペクタクルと映画を巡る議論というと、若干ギー・ドゥボールの『スペクタクルの社会』を連想したりしてしまいますが、本作はさすがにそこまで突っ込んではいない印象なので、あまりイキって踏み込みすぎずに固有名詞の出し逃げでやめておきたいと思います。

ジョーダン・ピールという映画作家による、映画に対するこうした自己批判的目線と合わせて描かれるのが、人間による動物のコントロールの不可能性、もっと言えば他者をコントロールしようとすること自体への批判意識に基づく、関係性の逆転です。

この映画の前半では、ジュープだけでなくOJたち主人公全員が、JJが生き物であるとはつゆ知らず、まさに未確認の飛行物体だとして、その姿を映像に収めてやろうと頑張っています。

この時主人公たち人間は、JJのことを自分たちが観察する対象であると”思い込んで”います。
二者が<見る><見られる>の関係性にある時、言うまでもなく<見る>側の方が立場は上です。
この映画の序盤では<見る>側がOJたち人間、<見られる>側がJJだった、つまり関係性としては人間の方が優位に立っているものとして描かれます。
しかし物語が進むにつれ、JJは物体ではなく生き物であるということが分かり、JJは<見られる>側ではなく捕食者として人間を<見る>側であったことが分かります。

映画冒頭、「私はあなたに汚物をかけ、あなたを辱め、見世物にする」というナホム書3章6節が引用されていますが、映画後半ではJJがOJたちの家の真上にやって来て、家に食べカスをぶちまけて去っていくシーンがありました。
冒頭の印象的な引用を実行したのはJJであり、この映画において最も優位に立ち続けていたのはJJであることが分かります。

さらに、この関係性の逆転を象徴しているのが「Gordy’s Home」です。
人間たちはゴーディのことを勝手にペット扱いをして<見る>側、つまりゴーディをコントロール可能な優位にたっているつもりでしたが、本当の<見る>側で優位に立っていたのは人間が自分をどう扱うのかを見ているゴーディだったわけです。
そのことに最後まで気付けなかった人間たちはゴーディの手によって制裁を受けるのです。

この<見る><見られる>の関係性は我々観客と映画との関係にも適用されます。
我々はOJたちと同じく何かが空を飛んでいると思って映画を観始め、<見る>側という安全地帯から次の展開などを予想してヘラヘラ観ているわけです。
しかし、映画の中盤、劇中での<見る><見られる>の関係が逆転し、予測不可能な展開に進んでいくうち、我々はこの映画を<見て>いたのではなく、我々がこの映画に対してどのような展開を予想しているか推測し、先回りしてそうした予想を見事にかわしているという点で、我々がこの映画に<見られていた>ということに気付くのです。

<見る>側として他者をコントロール可能だと思い込み、どんなものもスペクタクルにできると高を括っていたジュープがどうなってしまったか、動物を思うがままコントロールするなど不可能と考え、馬相手にも対等に接したうえで調教師をやってきたOJがどうなったかは映画で描かれた通りです。

シャマラン映画っぽい?

ゲット・アウト』『アス』『NOPE』と続くジョーダン・ピール作品を観てきて、いよいよこういう印象を抱く方も多くなってきているのではないでしょうか。

「なんかシャマラン映画っぽくなってきてね?」と。

過去二作は「人種ホラー」のイメージが強かったため、あまりそうは感じずに観ることができたと思うのですが、本作は「人種ホラー」っぽさはかなり薄くなり、「ヘンテコな」「ぶっ飛んだ」設定が飛び出してくるという印象が先行して、シャマラン映画っぽさを感じる面は確かに強くなっていると思います。

別にそう感じることを否定したいわけではないのですが、個人的にはジョーダン・ピール作品とシャマラン作品にはかなりはっきりとした違いがあると思っています。
その違いは「エモーションの有無」です。

確かにぶっ飛んだ設定の登場する、オリジナリティに溢れるヘンテコ映画であるという点では共通しているのですが、ジョーダン・ピール作品の場合はそこに強い社会的なメッセージ性が盛り込まれています。
しっかりとカタルシスもあり、間違いなくエンタメ作品として楽しめるのに、その背景にはガッツリと社会的な問題が横たわっているというあたりは、間違いなく一流作家の所業なわけですが、その代わりに人間同士のドラマ、ストレートな感情への訴えかけは薄いものになっています。

一方シャマラン作品は、社会的メッセージ性はジョーダン・ピール作品に比べると薄いですが、とにかく必ずと言っていいほどエモーショナルなドラマが用意されています。

直近の作品である『オールド』(2021)で言えば、あの海岸での出来事は壮大な治験だったという、ぶっ飛んだ(そしてツッコミどころ満載の)設定が飛び出す映画でした。
しかしそのぶっ飛んだ設定と展開によって、最終的にはあの夫婦の関係性の変化に胸を打つという、衝撃の展開に加えて感動もさせるという、冷静に考えれば相当腕が無ければできない技をやってのけています。

これはもちろん「どちらの方が優れている」という話ではなく、どちらも圧倒的なオリジナリティと才能に溢れるバケモンであるということなのですが、とりあえず口を酸っぱくして言っておきたいのは、「ジョーダン・ピール作品とシャマラン作品は結構違う」し、「シャマラン=設定がヘンテコだけでは決してない」ということです。

二人とも天才!

おわりに

最後なので一個だけ若干引っかかるところを言っておくと、JJとの対決前にOJが「動物を支配はできない、契約があるだけ」的なことを言っていたような気がするんですが、そう言っていた割に、契約も相互理解もクソも無くしっかりJJをぶっ殺しちゃったのは大丈夫なんでしょうか。

まあそこはハリウッド映画らしくというか、「スペクタクル」としてキッチリ最後まで終わり切るということで主人公大勝利エンドということなのでしょうね。

と思ったら、JJのデザインを手掛けたジョン O. ダビリが「プロデューサーじゃないからアレだけど、まあ死なないクラゲとかいるからね~」とか言ってJJ生存の可能性を示唆しているじゃないですか。
しかもジョーダン・ピールも続編の可能性を否定していないようじゃないですか。

あそこからさらに続編作っちゃうなんてジョーダン・ピール先生、冗談きついぜ。(大スベリ)

おわり

コメント

タイトルとURLをコピーしました