『フォレスト・ガンプ/一期一会』(1994) ネタバレ解説 感想|この映画は “保守的” なのか

解説・感想
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作品情報

制作年1994年
制作国アメリカ
監督ロバート・ゼメキス
出演トム・ハンクス
ロビン・ライト
上映時間142分

あらすじ

アラバマ州グリンボウの田舎で女手ひとつで育てられたフォレスト・ガンプ。
小学校に入ったものの、勉強が苦手で足にギブスをはめたフォレストはバカにされてばかり。
遊んでくれるのはスクールバスで一緒になった優しい女の子、ジェニーだけだった。
ある日、同級生たちにいじめられていたフォレストは、「走って!」というジェニーの声で猛然と駆け出す。
それも足のギブスが吹き飛ぶほどのスピードで—。
アメフト全米代表、ベトナム戦争、卓球世界選手権、エビ漁船船長、
そのままフォレストは風のような速さで自らの人生を駆け抜けてゆく—。

引用元:シンカ

映画ファンなら誰でも一度は耳にする名前「フォレスト・ガンプ」
タイトルで「一期一会」って言ってるけど「めちゃくちゃ再会してるじゃねえか」でおなじみの「フォレスト・ガンプ」。

映画冒頭で説明される通り、この名前の「フォレスト」は、かの白人至上主義団体「クー・クラックス・クラン」結成者の一人であるネイサン・ベッドフォード・“フォレスト”から取られています。

日本における本作の立ち位置というと、インターネットで「映画 おすすめ」と検索すれば真っ先に登場するレベルの知名度で、基本的にこの映画はひたすら「感動の名作」として認識されています。
映画ファンの多くはこの映画を見たことがあるだろうし、「生涯ベスト映画」のうちの一本として挙げる方も少なくないでしょう。

しかし、本作をベスト映画に入れている方々には申し訳ないですが、私はこの「感動の名作」という扱いには異を唱えたいのです。
異を唱えたいというか、無条件で「感動の名作」として賞賛するのは問題があるということです。
本作が作られたアメリカでも一応「感動の名作」として認識されていますが、それは公開当時から長年続いている「論争」を踏まえてのものです。
本来この映画を「名作として扱って良いのか」どうかには非常に議論の余地があります。

本作を無条件で名作扱いすることになぜ問題があるのか、本作に存在する問題点の指摘と、最後にはそれらの意見に反論する重要な指摘も紹介したいと思います。

ちなみに本作に関する問題点というのは、映画評論家の町山智浩さんが最も危険なアメリカ映画(2019年,集英社)で詳細に指摘されています。
本記事の内容よりも詳細な情報が気になる方はぜひご一読ください。

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この映画は「保守的」なのか

©Paramount Pictures

本作に対して長年行われてきた議論というのは、「この映画はあまりにも保守的な思想(特に社会保守主義)に偏りすぎではないか」という問題です。
その根拠の数々は後述します。

思想が保守に偏っている時点でそういった映画は全てダメだ、と言いたいわけではありません
保守的な思想自体を全否定したいわけでもありません。
この映画が「偏った思想に基づいて作られた映画である」ことを指摘し、この映画は「その事実を認識したうえで鑑賞されるべき」ということを主張するのが本記事の意図です。

なので、今回ご紹介する議論を踏まえた結果「感動の名作」として鑑賞するならそれは良いと思います。
國民の創成風と共に去りぬなど、映画史において無視することはできない「名作だが問題作」という映画は数多く存在します。
ただ、上記のような作品であれば、その作品が抱える問題点というのは既に広く共有されており、そうした問題点を踏まえた上で鑑賞されています。(と信じたい)
一方本作は日本国内においてそうした指摘や議論が極めて不十分であり、問題点に気付かず、あるいは知らずに大勢の人々に鑑賞され「感動の名作」とされています。

これが非常に問題です。
この映画も内容が含んでいる事情を踏まえた上で鑑賞されるべきです。
皆さんが大好きな「多様性」を重視するならなおさらです。

現在ではそこまで言う人は減っている印象ですが、この映画を「プロパガンダ映画」だと評価する意見も少なくありませんでした。
実際、過去にアメリカの共和党が本作をプロパガンダ的に使用した実例があります。

『フォレスト・ガンプ』は1994年7月に公開されて大ヒットし、同じ年の11月の中間選挙では、共和党が『フォレスト・ガンプ』をプロパガンダに使った。たとえば下院議員ニュート・ギングリッジは、当時こういう演説をしている。
「『フォレスト・ガンプ』のカウンター・カルチャーの描き方は真実だ。彼ら(反戦学生やヒッピーたち)は、汚く、いやらしく、悪意に満ちて、女性を平気で殴り、グロテスクなことをする連中だった。ビル・クリントン(当時の大統領)はそういうカウンター・カルチャー側の仲間なんだ。」

町山智浩『最も危険なアメリカ映画』(2019),集英社,334~335ページ

本作が保守的な思想のプロパガンダとして意図的に作られたかどうかは抜きにしても、共和党の議員がこのような演説をできるくらいには、少なくともそのように受け取れる余地が多分に存在しているということです。

特にこの映画が「感動の名作」として受け入れられている日本について言えば、本記事で取り上げるような議論がろくに行われず、無条件で受け入れられてしまっているという点では、現状「プロパガンダとして成功してしまっている」と思います。

ちなみに本作を監督したロバート・ゼメキス、主演のトム・ハンクスは二人共のこの「本作が保守派に偏り過ぎている」という指摘は否定しています。

しかしこれも後に触れますが、本作のDVDに収録されている音声解説内でのロバート・ゼメキス監督による数々の発言を見れば、この否定には全く説得力がないことがわかります。
彼の出世作バック・トゥ・ザ・フューチャー(1985)でも、徹底的に白人目線でアメリカの歴史を振り返り、白人にとってしか「古き良きアメリカ」でなかった1950年代を「理想」として描いて見せていたことも考えれば、彼が単に「そんなつもりはない」というだけでは説得力に欠けます。
出来上がった作品を見れば、視座があまりに偏っていることは明らかです。

トム・ハンクスによる否定も、「中立的だ」というだけで具体的になぜそう言い切れるのかまでは示しません。
彼本人は民主党支持者であることを考えると、具体的な理由まで述べてくれないのであればそれは単なる「事なかれ主義」的に何となく中立的だと言っているように見えてしまいます。

前置きが長くなりました。
ここから具体的に本作の問題点について取り上げていきます。

「人種」について

©Paramount Pictures

「フォレスト・ガンプ」という名前の由来

冒頭で述べた通り、「フォレスト・ガンプ」という名前には物議を醸す由来が設定されています。
「フォレスト・ガンプ」の「フォレスト」は、“あの” 白人至上主義団体「クー・クラックス・クラン」(以下、KKK)を発足したメンバーの一人であるネイサン・フォレストに由来しています。

KKKという秘密結社がこれまでのアメリカの歴史において、どのような事を行ってきたのかはここで言うまでもないでしょう。

これだけ聞くと完全にどうかしています
ドイツ人の親が息子に「アドルフ」と名付けるようなものです

ではなぜこのような人物から名前を取ってきたのか。
フォレストの母曰く、まず我々はこの「ネイサン・フォレストと遠縁である」ということ。
そして「人間は時にこういう馬鹿なことをしてしまうから、その戒め」のためとのことです。

加えて、彼らの名字である「ガンプ」は、フォレストの故郷であるアラバマなどアメリカ南部で使用されていたスラングで、「馬鹿」や「のろま」といった意味がある言葉です。

つまり「フォレスト・ガンプ」という名前は、フルネームで「馬鹿なフォレスト」的な意味になるわけです。
この点をもって「この名前の由来に保守的な思想はない」とする意見があります。
しかし、私にはどうもそうは思えません。
その理由は二つです。

  1. 由来を説明する際にネイサン・フォレスト「南北戦争の英雄」と発言している。
  2. KKKが行ってきた数々の所業を「馬鹿なこと」という表現で片づけている。

一点目について、この発言はフォレストによるものですが、彼は知能指数が低く歴史の知識はないため、この情報は母から伝えられたものです。
この母親は、奴隷制度の廃止に反対した南軍で活躍し、その後白人至上主義団体を立ち上げた人物を「英雄」と認識しています。
彼を英雄視できるのは「アメリカ南部の保守派白人」でしかありえないでしょう

二点目について、KKKが行ってきた所業を「馬鹿なこと」で片付けるのは無理があります。
この母親が息子にKKKがどんな団体かを教えないばっかりに、フォレストはその「馬鹿なこと」を「頭からシーツを被っていること」だと誤解しています。
KKKに対してこんな認識の母親も、これがギャグとして成立していると考えている映画の作り手も、これをギャグとして笑える観客も、それは保守派の白人でしかないと思います。(もしくはフォレストか)

ちなみにこの母親に関しては、「フォレストを学校へ入学させるために母が校長と寝る」という描写があります。
一応この描写をもって母親は罰を受けていると考えることもできますが、別にこのおかげで彼女が考えを改めるようなこともないので、つり合いがとれているとは言い難いでしょう。

1950~1960年代アラバマという舞台

これは本作を批判する際に最も指摘される部分ですが、本作の舞台についてです。

フォレストが少年時代を過ごすのは1950~1960年代のアラバマ州です。
この年代のアラバマというのは「公民権運動」の真っ只中であり、まさにあのキング牧師などが必死に活動していた頃です。

この映画はそんな時代のアラバマを舞台にしておきながら、当時の「公民権運動」や「人種隔離政策」の実態がほとんど描かれません。
唯一描かれる描写は、「黒人学生たちが初めて大学に入学する瞬間にフォレストが立ち合い、そこで黒人学生の一人が落としたノートを拾ってあげる」というシーンのみです。
実際はあれだけ激しく公民権運動が行われていた当時のアラバマを舞台にしていて、これだけです。

この「公民権運動や人種隔離政策を隠蔽している」という批判についての反論としては、「この映画で描かれる歴史は、知能指数の低いフォレストが認識している歴史であって、彼はアメリカの歴史全てを把握しているわけではない」や「この映画は別に人種差別を主題にした映画ではない」という意見があります。

確かに、この映画で描かれるアメリカの歴史は、基本的に全て主人公フォレストを通して語られるものであるし、この映画の主題が人種差別であるということもないでしょう。

しかしここで注目していただきたいのは、本作のDVDに収録されているロバート・ゼメキスをはじめとする製作陣による「音声解説」です。
この音声解説の中で、「この映画で描かれるのは現代アメリカ史のダイジェスト版だ」という発言があります。

つまり本作の作り手は、「現代アメリカ史をダイジェスト版にした時、公民権運動や人種隔離政策は描かなくて良い」と考えているということです。
さらにはこの映画で描かれるアラバマを指して「まさに我々の青春時代」とも述べてもいます。

この映画は、こうした価値観によって作られたアメリカ史がフォレストの視点を通して描かれています。
結局フォレストが目にしているのは「保守派の白人から見たアメリカ」になっています。

公民権運動や人種隔離政策を絶対に描けとは言いません。
が、「公民権運動や人種隔離政策を描くのは適していない」と考える価値観に基づいて作られた映画であることは認識して鑑賞されるべきです。
間違ってもこの映画が中立的に「現代アメリカ史」を描いていると誤解をしてはなりません。

ババという人物

アラバマでの公民権運動は描かれませんが、では大学のくだり以降アフリカ系アメリカ人たちが一切出てこないかというと、そんなことはありません、

フォレストがベトナム戦争に参加した際、ババという人物が登場します。
アラバマでの人種の描き方に問題があるという批判に対して、「ババがいるからセーフ」という意見もありますが、全くセーフではなくて、むしろババの描き方こそ問題です。
問題点を端的に箇条書きで列挙します。

  • フォレストほどではないが特に理由もなく知能が低めの設定
  • 誇張された下唇(俳優本来の口元がそうなっているわけではないので演出)
  • アメリカ南部出身の白人であるフォレストをババの方から無条件で受け入れる
  • 何事もなくフォレストと友情を築き、戦死

特に下の二点が重要で、このババというキャラクターは、結局のところ「フォレストは優れた人間性の持ち主である」ということを描くためだけに存在するキャラクターです。
それはフォレストが「人種に分け隔てなく接することができる」ことや「たとえ仲間が瀕死の状態であっても諦めずに助けようとする」こと、「亡き友との約束を果たし、その利益を他者に分け与えることができる」といったことなどです。

このように、白人から受ける差別を受け入れていたり気にしていなかったりして、(主に白人男性である)主人公を無条件で助け、成長させ(その際優れた洞察や神秘的な力を発揮することがある)、その主人公で「感動エピソード」を語るためだけに作られた、白人にとって都合の良い黒人キャラクターのことを、映画監督のスパイク・リー「マジカルニグロ」と呼んで常に批判しています。

このババというキャラクターは、現在主にアフリカ系アメリカ人からは「マジカルニグロ」のキャラクターの一人として認識されています。

「ジェニー」というキャラクターの扱いについて

©Paramount Pictures

フォレストの「対照」として登場するジェニー

この映画では主人公フォレストと対をなすように存在する「ジェニー」というキャラクターがおり、彼女はフォレストと全く対照的に描かれていきます。

本作を通してフォレストはどんどんと成功していく一方、ジェニーはそれと同じスピードで破滅していきます。
重要なのは、この破滅していくジェニーがどのような人物かということです。

「反体制派」の象徴ジェニー

ジェニーは、歌手になるという夢を持ちながら公民権運動やベトナム反戦運動に参加し、ヒッピーになっていく人物であり、完全に「反体制派」の人物として描かれています。
まさに「セックス、ドラッグ、ロックンロール」の人生を歩んでいきます。
そんな「反体制派」の彼女は、本作を通して徹底的に辛い目に遭わされます。
こちらも具体的な出来事を箇条書きで列挙します。

  • 父子家庭に育ち、どうやら父親から性的虐待を受けている
  • 親戚に引き取られるも、引き取られた先はトレーラーハウスで貧しい子供時代を送る
  • 一度成人向け雑誌に出てしまったことがきっかけで大学を退学
  • 大学中退後はまともな職に就けず、ストリップクラブで全裸で歌を歌っている
  • ベトナム反戦運動や公民権運動に参加しヒッピーになる
  • ブラックパンサー党に出入りするようになり、そこで付き合った男性には日常的に暴力を振るわれる
  • ドラッグ中毒になり自殺寸前まで追い込まれる
  • フォレストの子を身ごもり、そのままシングルマザーに
  • (エイズと思われる)不治の病に侵され、死亡

「反体制派」の象徴であるジェニーが送るこのつらい人生には、本作の作り手による反体制派への偏見や侮蔑的な視線に溢れています。

カウンターカルチャーへの蔑視

©Paramount Pictures

ジェニーへの悪意が最も表れているのは、彼女が「歌手を目指すも挫折する」という展開です。

ジェニーがフォレストを大学の寮に連れ込むシーンで、ジェニーは「ジョーン・バエズのような歌手になりたい」と言います。

ジョーン・バエズとは「We Shall Overcome (邦題:勝利を我等に)」という曲で有名な、公民権運動やベトナム反戦運動、21世紀以降はイラク戦の反対やトランプ大統領(当時)への抗議などで現在も活躍しているシンガーソングライター、活動家です。
『フォレスト・ガンプ』の時代はキング牧師ボブ・ディランらと活動していました。

ジェニーは「反体制派」の象徴であるため、彼女のような歌手に憧れています。

しかしその後フォレストとジェニーが再会した時、ジェニーはストリップ小屋にいます。
ここでジェニーはボブ・ディラン「風に吹かれて」を歌っています。
この曲は言うまでもなく、プロテストソングとして最も有名な一曲です。
この映画はそんな「風に吹かれて」を、ジェニーにストリップ小屋で、全裸で歌わせています

そしてこのシーンに対する音声解説です。
実際に聞いていただければお分かりになるかと思いますが、ロバート・ゼメキスたちは「ジェニーは全裸で “風に吹かれて” を歌うんだよ(笑)」とちょっと笑っています。
このように彼らはプロテストソングをバカにしています

ジェニー自身に対してだけでなく、ジェニーの周囲にいる「反体制派」の人々全般に対しても偏った視線が注がれています。
ジェニーがベトナム反戦運動に参加してからです。
フォレストはウェスリーという男に出会います。
彼はUCLAの反戦委員会の会長で、ジェニーと同棲しているという設定で登場します。
そんな彼はジェニーを平気で殴りつける暴力男です。

ウェスリーと同じタイミングで、プラックパンサー党の人々が登場します。
彼らはフォレストに対して終始怒鳴り散らしています。

彼らはなぜこのようなキャラ造形なのでしょう。
KKKの所業は語らず、キング牧師たちの活動も語らないのに、なぜ反戦委員会会長やブラックパンサー党はわざわざ登場させて、彼らの攻撃的な言動はこれでもかと見せつけるのでしょうか。
ここに「偏見は一切ない」「中立的だ」と果たして言えるのでしょうか。

またフォレストは、ジェニーも参加しているベトナム反戦運動の集会を目の当たりにする場面で、集まっている人々のことを「大声で叫ぶ行儀の悪い連中」と表現します。
これはフォレストによる発言のため、例によって彼の意志ではなくそう教えられたから言っているわけですが、ベトナム反戦運動で集まっている人々を「大声で叫ぶ行儀の悪い連中」と一括りにしてフォレストに教えるのは、彼らに偏見を持っている保守派や体制側の人間以外にいるでしょうか。

さらに言えば、本作を批判する際に散々指摘される通り、この映画ではベトナム戦争の戦場が描かれるものの、戦争が泥沼化し「アメリカが敗北する」という事実は描かれません。

ベトナム戦争というのは、アメリカが共産主義に対抗するため「ドミノ理論」を唱えてベトナムの内戦に介入したことをきっかけに、最終的にアメリカ人兵士が約58,000人、ベトナムの民間人は南北合わせて2,000,000人以上(推定)が死亡したうえアメリカの敗北で終わるという、完全に間違った戦争でした。
ベトナム戦争当時の国防長官であったロバート・マクナマラマクナマラ回顧録:ベトナムの悲劇と教訓(1997年,共同通信社)でベトナム戦争がアメリカの過ちであったことを認めています

ベトナム戦争に対してこの事実を描かず、それどころか反戦運動に参加する人々を「クズ」のように描くこの映画は本当に「偏っていない」のでしょうか

ここでもう一度DVDの音声解説を聞いてみましょう。
以下、ロバート・ゼメキスによる発言の引用です。

ジェニーという役が代弁するのは満たされぬ思いを抱えたアメリカの世代。
当時彼らが救いを求め走ったのが「セックス、ドラッグ、ロックンロール」。
フォレストはいわゆるアメリカの理想像。
アメリカの明るく幸福な面の代弁者。
二人は当時のカルチャーの光と影を表す存在。

引用元:『フォレスト・ガンプ/一期一会』[DVD] 英語音声解説より

これは紛れもなく保守派の立場そのものです。

カウンターカルチャーというのは、第二次世界大戦後の東西冷戦、その後キューバ危機やベトナム戦争、ケネディ大統領暗殺などを経て、若者がこの嘘と欺瞞だらけのアメリカを信じられなくなって起きたムーブメントです。

それは有色人種や女性や障がい者などマイノリティを差別する「白人中心社会」「男性優位社会」、同性愛や自由な性行為、中絶などを禁止する「キリスト教社会」、他にも「権威主義」「商業主義」「環境破壊」など、そういった既存の古い社会システムに対する抵抗でした。

これらを全て「満たされぬ思い」という一括りで片付け、「当時のカルチャーの影」と表現しています。

これが保守的な思想でなくて何なのでしょうか。
フォレストとジェニーを対比させ、それぞれ「光」と「影」と断言しているので、少なくとも「中立的」では全くありません

「フォレスト・ガンプ」という人物について

©Paramount Pictures

少し個人的な感想を挟むと、まずこれまで述べてきた思想云々を抜きにしても、この映画は何もかも全てがフォレストの都合のいいように世界が動くため、そんな人間に「人生はチョコレートの箱のようなもの。開けてみないとわからない。」と言われても何も感動はしません。
「Run! Forrest, Run!」と言われて走ったら生まれつき悪かった骨格が完治するような人間です。

彼はアラバマで相当大きな家に暮らしています。黒人の使用人がいるレベルで、ジェニーの暮らしぶりとは真逆です。
「ネイサン・フォレスト」の親戚であることからも、南北戦争前はプランテーションで黒人奴隷を使用していた側の人々で裕福だったことが想像されます。

そんなフォレストがいじめられていて辛いということなのですが、舞台がアラバマであるばっかりに、その辛さがイマイチ分かりません。
なぜなら、アラバマには彼より遥かに辛い思いをしている人々が大勢いるからです。
フォレストをいじめる少年たちも白人であり、これは所詮恵まれた人間同士の小競り合いです。

フォレストの母は「人が平等なら全員が脚装具をつけるべき」だと言いますが、アメリカ南部のお金持ちで黒人を使用人にしている人間に「平等」を語られても、説得力は皆無です。
ここで言う「人」は「白人」のことなのだろうなと思うだけです。

そのため、この映画でフォレストはジェニーと通じ合えるような「不幸な生い立ち」的に幼少期が描かれますが、はっきり言ってそれほど感情移入のできるような生い立ちではありません。

「保守派」の象徴フォレスト

というこのフォレスト・ガンプというキャラクターは、先ほど取り上げた徹底的に破滅していく「反体制派」の象徴ジェニーとは対照的に、徹底的に成功していくキャラクターであり、「保守派」を象徴しています。

以下がジェニーと対照的なフォレストの設定です。

フォレストジェニー
豪邸に住んでおり明らかに裕福トレーラーハウスにしか住めないほど貧乏
母と愛し合っており親子の絆が強い母親がおらず父親からは虐待を受ける
大学ではアメフト選手として脚力のみで大活躍大学では歌手を志すも挫折
ベトナム戦争に参加し一切人を殺すことなく大活躍反戦運動に参加し男性から暴力を受ける
エビ漁ではなぜか彼の船だけ嵐を耐え億万長者にいつの間にかドラッグに溺れ自殺未遂
走りたいからという理由で大陸を何往復も走るフォレストの子を産み、病に侵されながらもダイナーで働く
ジェニーから息子を引き取り幸せに暮らすフォレストに息子を託し死亡する

フォレストは「保守派」の象徴であると述べましたが、その象徴の仕方に少し捻りがあります
フォレストはジェニーと違い、彼自身が保守的な思想を持って行動しているわけではありません。

フォレストは知能指数が低いという設定で、彼の行動には自分の意志がほとんど存在しません
彼の行動原理は、「親」や「大人」や「国」などの権威に言われることをその「無垢な心」で信じ、言いなりになることです。
そんな彼が信じる相手というのが旧来の社会保守主義的な存在だということです。

フォレストがネイサン・フォレストのことを「南北戦争の英雄」と呼んだのも母親からそう教わったからであるし、ベトナム戦争に参加したのも兵士を募集していた大人に誘われたからであるし、反戦運動参加者たちを「大声で叫ぶ行儀の悪い連中」と呼んだのも(親か)軍隊の人間たちがそう呼んでいたから、彼は言われるがままそれに従っただけです。

このようにフォレスト本人に思想や意志があるわけではないため、多くの観客がこの映画に感動しているように、彼自身からは思想の偏りは感じないでしょう。
しかし、そんなフォレストが目にする出来事や出会う人々の描かれ方に、偏った思想が強く反映されています。

このことが最もわかりやすく描かれているのが、「反戦運動の集会でフォレストがスピーチをする」シーンです。
このシーンでは、フォレストがベトナム戦争に参加した人間を代表して、集まっている人々に向かって自分の経験を語ります。
ところが、反戦運動に反発する怪しげな人物によってフォレストのマイクが無効化され、フォレストのスピーチは映画の観客には一切聞こえなくなります

なぜこの映画はそんな演出をしたのか。
フォレストがこのスピーチで発言していた内容はこうです。

「ベトナムに行った人には両脚を失くした人もいます。故郷に帰れなかった人もいます。それは悲しいことです。」

フォレスト本人には独自の思想がないため、彼は現場で見たものをそのまま語り、そこで湧いた感情をそのまま語ります。
つまりフォレストの経験からすると、戦争は悲しいものであると言わなければなりません
しかし、この映画自体は保守的な思想に基づいているため、ベトナム戦争を否定するわけにはいきません。ましてフォレストは「保守派」の象徴であるため、フォレストの口からベトナム戦争を批判することは決して許されません

だからマイクを切ったのです。
自身に保守的な思想はないがしかし「保守派」の象徴であるフォレストには、ベトナム戦争に関して発言すべきことなど何もないのです。

もし主人公が「自分の」意志や思想を持って保守的な行動をとっていれば、もっとこの映画に対する反発は多かったことでしょう。
ところがこの映画は主人公にではなく、舞台や環境の方へ巧妙に思想を反映させているため、多くの観客が「当時アメリカはこういう国だったのだろう」と誤解してしまうのです。
思想の偏りはありますが、こうした映画作りの上手さはロバート・ゼメキス監督の手腕を認めざるを得ません。

フォレストに見る反知性主義的メッセージ

このような形で、映画の作り手たちの「保守的な思想に基づいて作り上げられたアメリカ」に翻弄されるフォレストは、あれよあれよと大成功していきます。
「なぜか勝手に成功していくフォレスト」と「なぜか勝手に破滅していくジェニー」を見比べると、私にはこのようなメッセージしか受け取れません。

フォレストのように自分でモノを考えず、思考停止して、ただただ親や大人、国の言うことを信じて疑わず、言いなりになって行動していれば人生上手くいって大成功。 ジェニーのように大人たちの言うことを聞かず、国の行っている戦争は間違いだろうと言って体制に盾突くような人間は、ヒッピーとかいうフリーセックスやドラッグばかりやってる連中とつるみ、そこでは男に暴力を振るわれ、どうせドラッグ中毒になって最後には病気で死ぬ。

というメッセージです。

この二人のうちフォレストを「アメリカの理想像」と呼ぶロバート・ゼメキス監督の発言も考えると、まるでフォレストと同じく自分で何も考えずただ権威の言いなりになることが「良きこと」かのような、「反知性主義」的なメッセージにはなっていないでしょうか。

この人周りも気になる「ダン中尉」

©Paramount Pictures

フォレストがベトナム戦争で出会うダン中尉というキャラクターも非常に気になります。
彼に関する描写からも、ベトナム戦争に対する保守的な思想が反映されている節があります。

まず軽い部分から言うと、フォレストがテレビ番組でジョン・レノンとの共演を果たした後、車椅子に乗ったダン中尉と再会する場面です。
(ちなみにこのジョン・レノンの描き方にも問題があります。詳しくは町山智浩さんの『最も危険なアメリカ映画』をご参照ください。)

この場面でダン中尉はフォレストに向かって一人で色々喋った後、「こんな国クソくらえだ!」と言います。
彼がその発言をした次の瞬間、彼は凍ったスロープで滑って車椅子ごとズッコケます
露骨ですね。

それよりダン中尉に関して最も引っかかるのは、ベトナム戦争を経験し両脚を失った後の彼と「キリスト教」との関係です。

明らかに軽く描かれる「ベトナム帰還兵」

ダン中尉はベトナム戦争でフォレストに助けられ、両脚を失った状態で生き残って帰国します。

彼は帰国後にフォレストと再会した時点では、「ベトナム戦争」を経験して両脚を失い、そして何より戦死した仲間たちを置いてこんな状態で生き残ってしまった自分に絶望しており、キリスト教かんか信じられないという状況に陥っています。
実際のベトナム戦争(その他の戦争も)を考えれば、帰還兵がこのような状況やPTSDに陥るのは自然なことでしょう。
このような人々はあらゆる戦争映画で散々描かれてきています。

ところが本作のダン中尉は、フォレストと交流するうちいつの間にか教会に通いだし、最終的にはフォレスト曰く「神様と仲直り」したなどと言われ、あっさりキリスト教に救われた感じになってしまいます。
これは「ベトナム帰還兵」という存在を軽く捉えすぎではないでしょうか。
ここにも「ベトナム戦争」を過ちだとは認めない、作り手の保守的な思想を見出さずにはおれません。

「ベトナム帰還兵」が登場する映画を思い出してください。
タクシードライバー(1976)、ディア・ハンター(1978)、ランボー(1982)などです。
彼らがそう簡単にキリスト教徒になれるでしょうか。
私にはとてもそうとは思えません。

もちろんベトナム帰還兵が全員こうなるとは言いませんが、少なくともアメリカでこういった映画が散々作られてきたくらいには、ベトナム帰還兵が負っている精神的な傷は深いということです。

なのでダン中尉があそこまであっさり「神様と仲直り」してしまうのは、「ベトナム戦争」に対する認識が「保守派」に偏っていると感じざるを得ません。
まあ、「ベトナム戦争とかどうでもよくなるくらいエビで儲かったからいいや」ということかもしれませんが。

それでもこの映画は「保守的」ではない?

©Paramount Pictures

ここまで、ひたすらこの映画が「保守的」だと言えるであろう根拠を指摘してきました。
最後に、それらの指摘に反論する「この映画は保守的ではない」とする意見も一部紹介しておきます。

このアメリカはあくまでフォレストから見たアメリカである

これは既に先ほど紹介してしまいましたが、「この映画で描かれるアメリカはあくまでフォレストが認識したアメリカであって、歴史の全てを認識しているわけではない」というものです。

確かにこの映画で描かれるアメリカはフォレストが見たアメリカですが、フォレストが見せられているそのアメリカは、作り手の保守的な思想に基づいたアメリカです。
これは、公民権運動や人種隔離政策が描かれないアラバマに対して「これは現代アメリカ史のダイジェスト版だ」というDVDの音声解説での発言を見れば明らかです。

また、フォレストが見ていないジェニーの人生自体が「カウンターカルチャー」への偏見で溢れていることからも、この擁護には無理があります。

「保守派」と「反体制派」が一つになるというエンディング

フォレストとジェニーが愛し合い子供を作ることで、「”保守派” と “反体制派” が一つになり新しい世代を作るというメッセージが示されるから偏っていない」とする意見です。

エンディングは確かにそうですが、結局これも上と同じです。
音声解説でロバート・ゼメキスが明言しているように、そもそも「保守派」を「光」、「反体制派」を「影」と明確に区別し差をつけているから偏っているのです。
エンディング以前の問題です。

フォレスト自身は差別をしない人間である

「フォレスト自身は差別をしない人間なので保守的な映画ではない」とする意見です。
確かにフォレスト自身は差別をしないし、彼自身が保守的な思想を持っているわけではありません。

しかし、先ほど「フォレストは保守派の象徴である」という話題の中で述べた通り、フォレストを通じて「ネイサン・フォレストは南北戦争の英雄」という発言や、「反戦運動の人々は大声で叫ぶ行儀の悪い連中」という発言、「フォレストの反戦的な発言をミュートする」という保守的な思想が示されるため、フォレスト自身が保守的な人物ではなくても、この映画が保守的な思想に偏っていることは否定できません。

ババの「マジカルニグロ」的立ち位置やDVDの音声解説内で「カウンターカルチャー」を「当時のカルチャーの影」と断言していることも考えれば、この映画に保守的な思想がないとするのはさすがに苦しいです。

この映画は「保守派に対する皮肉」である

「この映画は偏っていない」とする意見の中ではおそらくこの意見が最も説得力があり、個人的に本作についてはこの見方が一番しっくりくるかと思います。

この映画で「保守派」を象徴しているフォレストは、思考停止してただ体制の言いなりになり続けた結果人生大成功なわけですが、彼が成功していくのは彼の努力でももなく、単に「運」だけの力です。

つまり「たとえフォレストのように保守的な行動を取り続けても、結局は “偶然” でしか成功することはできない」という皮肉であるから、最終的には「保守派を批判したコメディである」という見方です。

ここまで読み取ることができれば、確かにこの意見が最も本作を飲み込みやすい見方なのではないでしょうか。

ただこの意見に対しても言っておきたいのは、ロバート・ゼメキス監督はフォレストを「アメリカの理想像」と言い切っていること、またもしこの映画がそのような皮肉として作られていたとしても、ほとんどの観客は皮肉として認識しておらず、フォレストに対して素直に感動してしまっているので、その皮肉を伝えることには完全に失敗しているということです。

おわりに

ここまでこの映画の問題点をかなり否定的に指摘してきました。
ただし、繰り返しになりますが「だからこの映画は駄作だ」だとか「だからこの映画を上映禁止にしろ」と言いたいわけではありません

あくまで、この映画を「無条件で」感動の名作と位置付けてしまうのはいかがなものかということです。

風と共に去りぬなどと同様、「この映画の根底にある思想には偏りがある」ということを踏まえて鑑賞されるべき映画です。

また、(特に日本の)観客には「映画と政治を関連付けること自体が嫌」というスタンスの人々も多く見受けられる気がします。

しかし、本来映画だけに限らず「芸術」全般というのはそもそも「政治」や「社会」と不可分です。
一見「政治」や「社会」と全く関係なさそうに見える「娯楽」でも、その社会に生きる人間がそれを作り、その社会に生きる人間がそれを享受する限り、「政治」や「社会」の影響を一切受けていない「表現」はありえません。

まして本作のように歴史を扱うのであれば「政治」や「社会」との関連は不可避です。

あらゆる映画を「娯楽」として無邪気に消費し続けるのも一興かもしれませんが、世の中には「無知」では済まされないことも多々あります。
私も含めてですが、まずはこういった「映画」からもう少し世の中について考えてみるべきではないでしょうか。

おわり

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