『クライ・マッチョ』(2021) ネタバレ解説 感想|良いノスタルジーと悪いノスタルジー

解説・感想
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作品情報

制作年2021年
制作国アメリカ
監督クリント・イーストウッド
出演クリント・イーストウッド
エドゥアルド・ミネット
上映時間104分

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あらすじ

アメリカ、テキサス。
ロデオ界のスターだったマイクは落馬事故以来、数々の試練を乗り越えながら、孤独な独り暮らしをおくっていた。
そんなある日、元雇い主から、別れた妻に引き取られている十代の息子ラフォをメキシコから連れ戻してくれと依頼される。
犯罪スレスレの誘拐の仕事。それでも、元雇い主に恩義があるマイクは引き受けた。
男遊びに夢中な母に愛想をつかし、闘鶏用のニワトリとストリートで生きていたラフォはマイクとともに米国境への旅を始める。
そんな彼らに迫るメキシコ警察や、ラフォの母が放った追手。先に進むべきか、留まるべきか?
今、マイクは少年とともに、人生の岐路に立たされる―― 。

引用元:公式サイト

クリント・イーストウッド監督最新作です。
映画の出演作としては50作目、監督作としては40作目、監督歴は50年、年齢は91歳という、数字が大きすぎてすごさが逆によくわからないみたいなことになってますね。

本作は1975年に書かれた小説の映画化で、1988年にはイーストウッドが監督することが決まり、91年にロイ・シャイダー主演で撮影が始まったものの完成せず、その後アーノルド・シュワルzeneggerが主演に決まるもののこれも中止になり、といった紆余曲折を経てついに、2021年にクリント・イーストウッド監督・主演で完成した映画です。
ということなので、アレンジをしているとはいえ原作もお話自体も基本的には古いんですよね。

実際、このお話においてたいして意外なことは起きないし、何かサスペンスや緊迫感があるわけでもないです、いきなりカントリーミュージックから始まるし、舞台も1970年代だしね。
それらをもってこの映画を「古臭い」「退屈」で片づけることは正直できるとも思うんですがしかし、今このような映画がクリント・イーストウッドという映画人によって作られ、それを我々が見ているということに何かしらの意義を見出さずにはおれず、私としては結構好きな映画になってしまいました。
その辺を語ってみようかと思います。

クリント・イーストウッドという映画人

引用元:https://film-grab.com/2016/08/26/gran-torino

たいそうな見出しを付けてしまいました。
おじさんおばさんであれば、自身の思い出や映画体験を交えながら延々と熱く語れるのだと思いますし、そういうおじさんおばさんの方々はたくさんいらっしゃると思います。
なので、仮に30歳未満を若者と定義するならば、おじさんと名乗らなくてもギリ許される者かなと思っている20代の私が、もう少し若者目線でクリント・イーストウッドとこの映画を推してみたいと思います。
でもそもそもこんなページ読んでる人はイーストウッドのことはよく知ってる人か…まあいいか…

ぶっちゃけあんまり興味ないよね

この映画、正直普通の若者は興味わかないですよね。
実際アメリカでも劇場に駆け付けたのは35歳以上が中心、配信での視聴者は65歳以上が中心という完全におじさんおばさん向けの映画として鑑賞されており、興行収入も控えめな感じになってしまっています。(コロナの影響もあるけど)
なので日本であればなおさら若い人は見にいかないでしょうね、明るいマッチョであれば日本の若者に大人気なんですがね…

しかし、そもそも映画興味ない人であればちょっとしょうがないですが、映画が多少でも好きであれば、たとえカウボーイや西部劇に興味がなくてもやっぱりこの映画は見とくべきなのではないでしょうか。
それはこの映画が面白いからということではなく、「クリント・イーストウッド作品だから」です。
と言うと私がクリント・イーストウッドの大ファンみたいですけど、イーストウッドのキャリアをリアルタイムで一緒に歩んできたおじさんおばさんたちに比べると、思い入れは正直薄いです。

20代は「許されざる者」以降に生まれている

クリント・イーストウッドを語るうえで避けて通れない重要作品といえば許されざる者だと思うんですが、この映画は1992年公開なので、20代以下が出会うクリント・イーストウッド「許されざる者」を作った後のイーストウッドなんですよね。
正直グラン・トリノ公開の2008年なんか、私は彼の存在を知らないどころか、今ほど映画好きでもない、部活に明け暮れる少年でした。
なので、20代以下が持ってるイーストウッドのイメージって、「そもそも知らない」「なんか実話ベースのちょっと重そうな映画を作ってる映画監督」のイメージだと思います。
実際に今作のクライ・マッチョは、2010年公開のヒア・アフター以来となる実話ベースではない映画です。

そのイメージだけで本作を見てしまうと、ただ盛り上がりのない古臭い映画で終わってしまうように思いますが、この映画をそれで終わらせるのは少しもったいない気がします、というか私は終わらせたくなかったんですよね。

まず言えるのは、イーストウッド作品を長く見ている人には当たり前のスタンスだと思いますが、本作の「マイクという主人公はイーストウッド自身である」として見る映画ですよね。

西部劇のスター最後の生き残り

引用元:https://film-grab.com/2013/05/09/fistful-of-dollars

近年ではどうしても実話ベースで社会派な映画監督のイメージですが、彼のルーツは何と言っても西部劇ですよね、西部劇のスターでした。
全くの余談ですが、「Clint Eastwood」を並べ替えると「Old West Action」になるというトリビアなんてのもあります。

話を戻すと、スターといっても彼が活躍したのはTV西部劇やイタリア製西部劇である「マカロニウエスタン」の世界であり、ジョン・フォードハワード・ホークスジョン・ウェインゲイリー・クーパーなんかが活躍していた西部劇の黄金期よりは後に出てきた人です。
黄金期世代ではないにしても、クリント・イーストウッドという人は、この時代の「リアルガチ西部劇に出ていた人」なわけです。

今でも西部劇と呼ばれるジャンルの映画は作られており、クライ・マッチョも広義的には西部劇に入ると思います。
ただし、西部劇というジャンル映画が今作られる場合、それはリメイクだったり、現代を舞台にしたネオウエスタンと呼ばれるジャンルであったり、その映画がどんなストーリーでどんな俳優が演じていたとしても、西部劇以降の時代に生まれた人々によって今作られたという時点で、それは西部劇が作られていた時代を踏まえたものになってしまいます。
イーストウッドはその、現代の映画製作者が踏まえる本家本元側にいた人間の「最後の生き残り」と言っても過言ではない存在なのです。

今年で92歳を迎えるイーストウッド御大

ギリギリ西部劇の時代を生きた人ということは、当たり前なんですが超絶長生きですよね、今年で92歳ですよ。
映画界の巨人と言えば真っ先に挙がるようなスピルバーグとかルーカスとかコッポラとかスコセッシとか、日本ではクライ・マッチョと同日に最新作が公開されたリドスコとか、この辺の人たちより先輩なわけですよ。

リアルガチ西部劇おじいさんというだけじゃなく、業界人としてハリウッド映画界とか、本人の思想はあるにせよアメリカという国を誰よりも長く見てきた人の一人なんですよね。

そんな人が今回西部劇を作ってしまったのです。

これは、比べてしまって申し訳ないですが、リドリー・スコットハウス・オブ・グッチを作ったのとはちょっと重さが違うと思うんですよね。

リアルガチ西部劇おじいさんがここまで生きてきて、果たして何を思って、人々に何を伝えようとして今、過去に何度も頓挫したこのクライ・マッチョを作ったのか。

それを考えると、本作のことはただ単純にストーリーや演出が面白い、つまらないじゃなくて、もっと根本的なところで見ておきたいなって思ってしまうわけです。

イーストウッド本人曰く

一人で突っ走ってしまいましたが、イーストウッド本人はインタビューなどでどんなことを言っているかというと。

昔からずっとこの映画は作りたかったんだけど、自分が演じるには「今じゃねえな、もうちょい歳取ってちゃんとしてからかな」と思っていた。
まあでもそろそろ主人公の年齢も越えてそうなことだし、「じゃあやるか」と思った。

みたいなことを言ってるんですね。
なので、今まで熱く語ってきたようなことは特に思っていない、たいして深く考えていない、という可能性は大いにありやす。

ここまで語ってきたことが台無しっていうね。

まあ気を取り直して、イーストウッドより勝手に重く受け取ってしまっているかもしれませんが、本作のテーマ的な話に移りたいと思います。

マッチョの象徴「カウボーイ」

© 2020 ラフィーネプロモーション All Rights Reserved.

主人公のマイクは職業的にはロデオスターということになっていましたが、彼はまさに「カウボーイ」という概念を象徴する人物として描かれていました。
カウボーイというのは、業務内容としては馬に乗って野生の牛を捕まえて売るみたいな仕事ですが、映画や小説の影響によって、段々と勇敢で荒々しく、腕っぷしの強い「男らしさ(=マッチョ)」の象徴、そして所謂 “古き良き” アメリカの象徴になっていきました。
日本でカウボーイというと、まあ100%絶対に「ふとっちょ☆カウボーイ」さんを連想すると思うんですが、あのキャラクターも言ってみれば、 “カウボーイなのに太っていてダサい” というのは、 “カウボーイ=強くてカッコいい” というイメージが前提となっているからギャグとして成立しているわけなので、マッチョの象徴としてのカウボーイの存在は、もはや世界中で共有されているイメージであると言えますね。

カウボーイによる「マッチョ」の否定

本作のマイクという男は、かつてはロデオスターとして大会を支配するような「マッチョ」の頂点を極めた男でした。
当然これは「イーストウッド自身」のことでもあり、西部劇で活躍した後、「ダーティーハリー」シリーズの大成功によってイーストウッドはタフガイの代名詞となっていきます。

そんなイーストウッドでもあるマイクは劇中において、マッチョやタフガイといったイメージから想像されるような行動はほとんど取りません。

基本的に暴力は振るわず、本当に必要な時のみ行使します。
(怪しい)女性がベッドに誘ってきても断ってしまうし、馬だけでなく動物はみんな大切にするし、家族と食事をする際は自ら率先して料理をするし、本当に辛い思い出に対しては涙を流すし、手話だって使いこなします。
良くも悪くも、人の言うことを割とすぐに信じるということもあったと思います。
かつて「マッチョ」の頂点であった彼が、その長い人生の中で様々なものを失い、その結果彼の中に残った大切な価値観というのは、“謙虚さ他者へ寄り添う ということだったのだと思います。

マイクは終盤、ラフォに対してこのようなことを言います。
「マッチョは過大評価だ、そんなものを誇示して何になる」「ロデオなんて馬鹿のやることだ」「すべての答えを知っている気になるが、老いとともに無知な自分を知る」

つまり自分はマッチョであると、「俺はこんなに度胸がある」「俺の方がお前より強い」なんていくらアピールしてマウントを取り合ったって、何の意味もないということですよね。
実際劇中では、彼もまた「マッチョ」の一人であるアウレリオという男が、鶏一羽にまんまと一本取られる姿が描かれます。

「人間が一人でどんなに強がったところで一羽の鶏にすら負ける」
その程度だということですよね。

マイクは老いによってかつての「マッチョ」さを失っていくことをマイナスと捉えたのではなく、むしろ本当のことに気付けたと、人間が老いていくことを肯定しているということだとも思います。

必要なのはフレンドシップ

本作はロードムービーという形で展開しますが、そうは言いつつある街での滞在が中心になっています
この街での出来事が我々に教えてくれるのは、マイクたちがこの町で出会うマルタという女性が代表するように友情フレンドシップの大切さだと思います。

マルタという女性はマイクたちの素性を知らないにもかかわらず、保安官補から匿ってあげることから始まり、日々食事を与え、住む家も提供し、最終的にはマイクと愛を育むこととなります。
一方マイクとラフォも、馬の調教に困っている調教師を無償で手伝い、その噂が広まることで街の人々が動物の世話についてアドバイスをもらうために集まり、マイクも「わしゃドクタードリトルか」なんてツッコみながらも全員に対応します。
マルタには食材を渡したりお店の仕込みを手伝う、夕食を振る舞うなど、金銭のやり取りではない方法で恩返しをします。

唯一保安官補の存在が若干の不安要素として街にはありましたが、アウレリオがこの街に到着するまでは、これでもかというくらい、前時代的な小規模コミュニティでの相互依存関係、そしてそういった人々の関係性がもたらす良い側面によって、平和な日々が描かれます。

つまり、損得勘定を抜きにして相手に何かを与える、やさしさや思いやりといった感情で接すれば、相手も同じように応えてくれるのだということを改めて教えてくれていると思います。

そして、今まで散々「マッチョ」なタフガイを演じ、この物語が否定する価値観を人々に与えてきてしまったイーストウッドからこういったメッセージを提示されるのは、イーストウッドはよほど今の現実世界に思うことがあるのではないかと感じてしまいます。

ラフォとの別れ

ラフォはメキシコで母親たちに虐待されながら過ごしてきたせいで、「マッチョ」さ、「男らしい」強さが必要だと思い込んできた少年でした。
彼はラストシーンで「マッチョ」と名付けてずっと一緒に生きてきた闘鶏をマイクに託し、国境線を越えてアメリカへ旅立っていきます。

ラフォは鶏に「マッチョ」と名付けてそこに自分の理想像を投影していたわけですが、マイクとあの町で過ごす中、マイクやマルタたちが体現してくれた本当の人々のあるべき関係性を学ぶことで、彼がそれまで肌身離さなかった「マッチョ」というペルソナを捨て去り、本来の強さを手に入れた生身の自分でアメリカ、言い換えればあの町に対して境界線の向こう側、ローカルに対する世界へと踏み出します。

良いノスタルジーもある

引用元:https://www.imdb.com/title/tt1924245/

先ほど述べた「損得勘定を抜きにして相手に与える」ことが大事とか、「やさしさが大切」みたいなメッセージははっきり言って古い、牧歌的すぎるとも思えるし、あるいはあまりにもキリスト教的で不快だと感じる人も正直少なくない気はします。

ただ、今この物語を見るということは大切というか、この物語を今見るということが重要になってしまうほど、今の時代がマズいということだと私は思います。

今の人々は、こんな単純明快なこともできなくなっている、そして忘れてるじゃん

ということだと思います。
一般的にノスタルジーはよくないものと認識されており、私もそう思いながら過去ばかりに囚われる日々を送っていますが、この映画のノスタルジーは単なる懐古主義には留まらず、わかりやすく人間関係の基礎、出発点を思い出さてくれる作品だと思います。

なので、この映画を何も目新しいことがないからと言って古臭いで片付けてしまうのはどうももったいない気がしてしまいます。

あとはマジな話、もういつ遺作になってしまうかわからないのは事実なので、評判に関係なくイーストウッド作品は劇場で見たいものですね。

おわり

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