ウィル・スミス平手打ち事件|彼が批判される理由と部外者がすべきこと

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世界中の記憶に残ってしまった第94回アカデミー賞

第94回アカデミー賞授賞式にて、長編ドキュメンタリー賞のプレゼンターを務めたアメリカの超人気コメディアン、クリス・ロックがウィル・スミスの妻であるジェイダ・ピンケット・スミスのヘアスタイルを指さし「G.I.ジェーン2が見たいよ」とジョークを飛ばしました。
そのジョークに対し不快な表情を示した妻を見たウィル・スミスはクリス・ロックの元へ歩み寄り、突如彼の顔面を平手打ちしました

ウィル・スミスは席に着いた後も「その汚い口で妻の名を口にするな」と複数回「Fワード」を交えてクリス・ロックを罵倒しました。

年々授賞式の視聴者数減少に苦しんでいたアカデミー賞は、皮肉にもこの事件によって世界中から近年稀に見る大注目をされることとなりました。

日本のネット界で飛び交う短絡的な擁護・否定論

ウィル・スミスがクリス・ロックをビンタする映像はたった数時間の間に世界中で数億回再生される事態になり、それからというものインターネット上だけでなくマスメディアもこの事件を取り上げ、主にウィル・スミス擁護派と否定派に分かれて議論(?)が飛び交っています。

その意見の割合の印象として、日本以外の国ではクリス・ロックの発言よりもウィル・スミスの行動を批判する声が多く、日本でだけはウィル・スミスを擁護する、またはクリス・ロックを批判する声が過半数を占めているようです。

インターネットの片隅で、こんな誰も読んでいない記事をあえて読んでいるような方であれば、この事件に対してもっとご自身で思考できる方々だと思いますが、ネット上を見ていると、「ウィル・スミスはよくやった」「ウィル・スミスは愛する妻を守った」「クリス・ロックはろくでもない」といった声があまりに多くて驚くと同時に辟易します。

これは非常に困った状況なので、誰も見ていないとは思いますが、ここにリアルタイムの記録として私の意見を残しておくとともに、上記のような考え方をしてしまっている方々に少しでも「違った見方が存在している」ことを知っていただければと思います。

まず、日本のネットに溢れている上記のようなウィル・スミス擁護論は大半が単なる感情論であり、それも非常に偏った狭い視座からの感情論です。
また、クリス・ロックがろくでもないという意見も、それは日本の「お笑い」しか知らないからそう見えているだけだということに気付けていません。

一方、ウィル・スミス否定論として多い「いかなる状況でも暴力は許されない」とする意見も、「いかなる状況でも」と言い切るのは非常に短絡的な思考停止であり、平和ボケしています。
もはや暴力に出るしか選択肢がないという状況はいくらでもあり得ます。
ただし今回のウィル・スミスは確実にその状況には当たりません。

要するに、ウィル・スミスを擁護するにしろ否定するにしろあのビンタの瞬間の映像だけを見て何かを言っている人が多すぎます。
また、日本の「お笑い」という特殊な物差しで海外のコメディを評価できると誤解している人も多すぎます。
そしてこうした人々の物言いは、その多くが自称する「リベラル」とはかけ離れていることも自覚いただきたいです。

クリス・ロックのジョークの背景

ウィル・スミス擁護派も否定派も、クリス・ロックの「G.I.ジェーン発言」だけ見て批判するのではなくもう少し「コメディ」という文化や「クリス・ロックとスミス夫妻との因縁」という文脈も踏まえて批判してください。

スタンダップコメディとは

私も専門家ではないので詳しくは各人でググっていただきたいですが、まず間違いなく日本の「お笑い」と欧米の「コメディ」は全く別物なので、「お笑い」という物差しで「コメディ」を評価することはできません。
日本の「お笑い」基準を持ち出し「そもそもクリス・ロックの発言はつまらない」と言うのは批判ではなく、個人の感想です。

欧米の(スタンダップ)コメディは政権批判や差別発言が出るというのが当たり前であって、特定の人々を傷つけるような発言に満ちています。
人畜無害なギャグやボケが良しとされる日本の「お笑い」で育った我々には理解しにくいかもしれませんが、そういうものです。

一般の観客たちは、コメディアンが繰り出すアウトとセーフの境界ギリギリを攻めたジョークを通して、それで笑ってしまった自分の中に「無自覚だった差別意識」を見出すことができたり、自分と全く異なる出自、アイデンティティの人々が「自分たちどう見ているのか」を知ったりできるのです。
「コメディ」という文化は日本の「お笑い」と違い、受け取り手が多種多様な人種、民族、アイデンティティであることが大前提となっています。

今回のクリス・ロックのジョークが「他に例を見ない」酷さだったかというと、全くそんなことはありません。
確かに彼はアメリカでもトップクラスに攻撃的なジョークを飛ばすことで有名ですが、他にもこうした問題発言ととれるジョークを言うコメディアンはいくらでもいます。

しかし、そうは言っても「身体的な外見」や「病気」をネタにして他人を蔑むようなジョークは現在アメリカ国内でもアウトになってきています。
そんな中クリス・ロックが特定の個人のヘアスタイルをネタにしたというのは、非常に過激だったことは事実です。

ただし、過激発言が完全にアウトとされてしまうのは主に一般人を相手にした場合です。
今回クリス・ロックがジョークの対象にしたジェイダ・ピンケット・スミスは一般人ではありません。
ハリウッドの一線で活躍する大スター、大セレブです。

この場合、クリス・ロックのポジションはコメディアンの本来的な役割である「道化」という意味合いが非常に強まります。
コメディアンは「道化」として授賞式出席者のようなセレブや政治家のような権力者を徹底的に茶化し、批判します。
批判される権力者側は、自分を取り囲むイエスマンたちとは違って自分の痛いところを徹底的に突いて批判してくる道化を見て、自分の立ち居振る舞いを客観視でき、最後にはそれらジョークを笑い飛ばすことで権力者としての器のでかさを見せつけることができるのです。

だからオスカー授賞式という場にクリス・ロックのようなコメディアンが呼ばれるのです。

クリス・ロックとスミス夫妻

クリス・ロックがスミス夫妻に対して攻撃的なジョークを放ったのは今回が初めてではありません。
2016年のアカデミー賞授賞式でクリス・ロックはスミス夫妻をネタにしています。

2016年のアカデミー賞といえば「#OscarsSoWhite運動」の最盛期であり、ウィル・スミスが『コンカッション』(2015)で主演男優賞にノミネートされなかったのは作品を選定するアカデミー会員が白人ばかりだったからだとして、スミス夫妻が有色人種へ授賞式のボイコットを呼びかけたことが有名です。

このボイコット運動に対して、プレゼンターとして出席していたクリス・ロックはスミス夫妻を思い切りネタにしました。

「ジェイダはオスカーボイコットしたらしいけど、そんなのオレがリアーナのパンティをボイコットするようなもんだぞ(=そもそもあんたは呼ばれてないだろ)」
「ウィルがノミネートされなかったことはフェアじゃないけど、ウィルが『ワイルド・ワイルド・ウエスト』(1999)のギャラで2000万ドルも貰ってるのもフェアじゃないよね」

このクリス・ロックとの因縁というのも、ウィル・スミスの頭に血が上ってしまった背景にあると考えれています。

ウィル・スミスが批判されても仕方ない理由

ジェイダ・ピンケット・スミスや脱毛症を患っている方々が言うなら分かりますが、そうでない部外者があのビンタに対して「ウィル・スミスよくやった」と言えてしまうのは、当事者でもないのに勝手にウィル・スミス側だけに感情移入して当事者の心情を代弁した気になっているからで、それは合理性と感情を分けて考えられていないという事態を晒しているだけです。

今回のウィル・スミスの行動は、世界中の多くの人々から批判されても仕方がありません。

プロとして失格な行動を取った

ウィル・スミスはクリス・ロックの発言に対して、自らの感情に流され、世界中が視聴していたあの場で、私怨に基づいて、暴力を行使しました。

あの場で「ウィル・スミスは実力行使に出るしかなかったのだ」とする合理的な理由は存在しません
スミス夫妻がクリス・ロックの発言に抗議したければ、授賞式とは別の場でクリス・ロックに対して正式に抗議すれば済む話でした。

もっと言ってしまえば、その場でクリス・ロックに対して攻撃的なジョークを返す、あるいは主演男優賞の受賞スピーチ内でクリス・ロックを批判して見せるのが本当のプロではないでしょうか。
彼は元々実力のあるラッパーなので不可能な対応ではないはずです。

ところがウィル・スミスは、「個人的な感情」を世界中が注目する授賞式の場に持ち込み、あまつさえ暴力を振るいました。
これでは映画芸術科学アカデミーがクリス・ロックではなくウィル・スミスの方を「規約違反」として追及してしまうのはやむを得ません。

世界中の面前で人を殴るという行動に出て授賞式という公序良俗を乱したウィル・スミスと、世界中の面前で人から殴られてもそれ以上場を乱さないようになんとか平静を保とうとしたクリス・ロック。

どちらがプロとして行動できていたでしょうか。

今後「怒った観客から暴力を振るわれるかもしれない」という危惧をコメディアンたちに植え付けた

これがウィル・スミス全面擁護派が「偏った視座である」理由の一つです。

プレゼンテーションの最中に歩み寄ってクリス・ロックを殴るという行動を世界に発信したウィル・スミスを肯定するのは、「腹が立ったコメディアンを殴っても良い」という主張を肯定することに繋がります。

実際この事件の後、毒舌が売りのコメディアンたちは観客から暴力を受けるリスクが上がったことを非常に重く受け止めています。
コメディアン出身のジム・キャリーは「クリス・ロックはウィル・スミスに訴訟を起こすべき」と主張しました。

ウィル・スミスは一般人ではなく「世界規模の大スター」です。
彼のような人間が取る行動には絶大な影響力が伴います。
これがその結果の一つです。

それは本当に「妻に対する愛」なのか

ウィル・スミス全面擁護派が「偏った視座である」理由のもう一つです。
彼の行動は本当に「妻のため」と言えるのか、妻の視座からも考える必要があります。

日本のネット上では「ウィル・スミスは妻を守った」だとか「それでこそ男だ」というような物言いが少なくありません。
この「侮辱された妻のために夫である自分が殴りに行く」という構図はまさに家父長制的であり「Toxic masculinity」(有害な男性性)の典型です。

ウィル・スミスは「妻を守るため」として自らクリス・ロックを殴りに行き、その後の謝罪では自分が未熟だったと述べるばかりで妻への言及はありませんでした。
妻から頼まれたわけでもいないのに、自ら率先して暴力を振るいにいくのは本当に「妻のため」なのでしょうか。
それは「妻を侮辱された自分」の面子を保つためだったとは言えないでしょうか。

妻であるジェイダ・ピンケット・スミスは、かつて夫のために授賞式ボイコットを呼びかけたように自ら行動できる人物です。
そんな妻のためを思うのであれば、やはりウィル・スミスはクリス・ロックを殴りに行くべきではありません。
クリス・ロックという他者を制圧しに行くのではなく、妻の一番の理解者としてまずは妻の感情の回復に努めるべきでした。

それが済んでから、これもやはり授賞式とは別の場でジェイダ・ピンケット・スミスが、あるいはスミス夫妻としてクリス・ロックに抗議すれば事は済んだのです。

このように、今回の事件の背景とともに冷静になってよく考えてみれば、ウィル・スミスを全面擁護するわけにもいかないことがお分かりいただけるかと思います。

部外者である我々大勢がやるべきこと

今回のウィル・スミスや、ジェイダ・ピンケット・スミスはじめ脱毛症を患う方々のように当事者であれば、クリス・ロックの発言に対して感情に任せた判断を下してしまうのはある意味自然なことですが、そうでない部外者が当事者同様に、あるいはそれ以上に感情論で物を語っているのは少々問題です。

今回はウィル・スミスが衝動的に行動してしまったため間に合いませんでしたが、この件に対して部外者である大半の人々がすべきだったのは、デンゼル・ワシントンやタイラー・ペリー、ブラッドリー・クーパーらが行ったように、クリス・ロックを殴るとは別の方法でスミス夫妻や傷付いた当事者たちを包摂し感情を回復させること、当事者の方々がクリス・ロックに抗議したならそれを支援することです。

勝手に当事者の感情を代弁した気になって、当事者よりも率先して声高にウィル・スミスの行動を擁護することではありません

しかし現実にはウィル・スミスは世界中が見てるところでクリス・ロックに暴行を加えてしまいました。
残念ながらこれは「法的にアウト」です。
なのでロサンゼルス警察が動こうとしたり、映画芸術科学アカデミーが彼を追及したり、世界の大勢が彼を批判することはもう避けられません。

ウィル・スミスは4月1日、映画芸術科学アカデミー会員を自ら辞任することを発表しました。

ここで必要なのは、法的なシステムが彼を許さない代わりにデンゼル・ワシントンらスミス夫妻の身近にいる仲間内、もしくはハリウッドの映画業界、もしくは世界中の映画ファンなど、より多くの人々が彼を「許してあげる」ことです。

これは、日本のネット世論で溢れている「ウィル・スミスよくやった」「ウィル・スミスは悪くない」という彼に「一切責任は無い」とする物言いとはもちろん異なります。

ちなみにクリス・ロックは、ロサンゼルス警察の「ウィル・スミスを逮捕する準備はできている」という申し出や映画芸術科学アカデミーが検討していた「ウィル・スミスのアカデミー賞追放」などの措置に対して彼自身は全て拒否しています。

おわりに

繰り返しになりますが、あのビンタ動画とジェイダ・ピンケット・スミスの持病だけを見て「ウィル・スミスよくやった」と感情論的に称賛するのは問題です。

当事者でもなければ彼らから頼まれたわけでもない部外者が、スミス夫妻の側へだけ勝手に感情移入して、頼まれてもないのにクリス・ロックや映画芸術科学アカデミーに激怒するのは、自分にとっての「快・不快」がイコール社会の「善・悪」であると誤解していることを露呈させているだけです。
そしてそれは彼らが自称する「リベラル」とは全く似て非なるものであり、ただの自己満足、マスターベーションです

ここまで合理性を欠いた感情論で社会の「善・悪」を語れると誤解しているようでは、日本から「死刑制度」がなくなるにはあと200年くらいかかるかもしれませんね。
まあもうその頃には日本なんて国ないかな。

おわり

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