『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』(2022) ネタバレ解説 感想|追悼とエンタメのせめぎ合いの結果

解説・感想
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作品情報

制作年2022年
制作国アメリカ
監督ライアン・クーグラー
出演レティーシャ・ライト
アンジェラ・バセット
ルピタ・ニョンゴ
上映時間161分

あらすじ

偉大な王であり、守護者であるティ・チャラを失ったワカンダ王国。悲しみに打ちひしがれる中、謎の海底王国タロカンからの脅威が迫る…。ワカンダと世界を揺るがす危機に、残された者たちはどう立ち向かうのか。そして、新たな希望となるブラックパンサーを受け継ぐ者は誰なのか…。絶対的な存在を失いながらも、未来を切りひらく者たちの熱き戦いを描いたドラマチック・アクション超大作が始まる!

引用元:マーベル公式

マーベル・シネマティック・ユニバース(以下MCU)最新作です。
劇場用長編としては30本目であり、本作でMCUフェーズ4は終了とのこと。

監督は前作『ブラックパンサー』(2018)から引き続きライアン・クーグラーが担当しています。
ご存知の通り『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』(2014)からブラックパンサー役を演じていたチャドウィック・ボーズマンが大腸がんにより2020年に43歳という若さで死去。
ブラックパンサー役に代役を立てるのかと世界中で予測がされましたがマーベルスタジオはそれを否定、チャドウィック・ボーズマンの死去と合わせて彼が演じていたティ・チャラも死去するというストーリーに変更し、この続編が作られました。

リアーナが歌う主題歌に乗せて流れていた予告編の段階で既に追悼ムードがムンムンだった本作。
果たしてどんな内容だったのか振り返えっていきたいと思います。

161分のお葬式

©Marvel Studios.

端的に結論から言ってしまえば、予告編から感じられた雰囲気通り、作品全体として故チャドウィック・ボーズマンへの追悼に全振りだったと思います。

映画冒頭でガッツリブラックパンサー/ティ・チャラのお葬式を開催、チャドウィック・ボーズマンの死去と同様にティ・チャラが死去しているため物語としても暗めになっています。
本作はワカンダ内部で物語が完結しており、MCUという流れの全体から見れば話が動いておらず、MCUの中でかなり独立している感覚が強いこともあって、MCUの物語を進めるというよりはティ・チャラの追悼が主たる目的になっている雰囲気を強く感じる作品となっていました。

シュリは本当に頑張った

Black Panther: Wakanda Forever': Finding the Next Black Panther and the  “Nexus” of the Movie | Marvel
©Marvel Studios.

ティ・チャラの妹としてブラックパンサーの技術顧問的なポジションだったシュリは、チャドウィック・ボーズマン/ティ・チャラの死去によって今回突然あまりにも大きすぎる役割を担うこととなりました。
これだけキャラクターの立場、役割が変更されたにも関わらず、シュリおよび彼女を演じたレティーシャ・ライトは本当に好演だったと思います。

ブラックパンサーのサポートポジションから今回は主演、そしてワカンダ国王、さらにブラックパンサーをも引き継ぐということで、ワカンダの全てを背負うキャラクターになりました。
この役割を背負えたのは前作『ブラックパンサー』でしっかり存在感を出せていたレティーシャ・ライトの俳優としての力量があってのものでしょう。

彼女のブラックパンサーは今後の活躍も見たいなと思わせてくれる素晴らしいものだったと思います。
でもね…(詳しくは後述)

追悼のあまりお話がイマイチでは?

ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』レビュー:スーパーヒーローの「死」を経て普遍的な物語へと昇華した | WIRED.jp
©Marvel Studios.

ここからはほとんど苦言になります。すみません。
確かにチャドウィック・ボーズマンの若すぎる死は残念だし、本作が彼の追悼路線を取ることに異論はないのですが、追悼をしたいがあまり映画としての出来がないがしろになっていると思います。

ユニバース的には話が進んでいない

本作は物語がほぼワカンダとタロカンの二国で完結しているので、MCU全体のストーリーとしてはほとんど進んでいません。
一応今後の重要キャラになるっぽいヴァレンティーナ・アレグラ・デ・フォンテーヌが登場し、エヴェレット・ロスと元夫婦であったことが明かされていましたが、それは別に大した情報でもありません。
MCU的にはとりあえずネイモアとアイアンハートと二代目ブラックパンサーの紹介をしておくのみというもので、本作自体はMCUの中でもかなり独立感の強い作品になっています。
これも、MCUとしての物語を進めるというよりはチャドウィック・ボーズマンの追悼を優先しようという方向性のものでしょう。

また鎖国してる

まず本作は前作の結末をいきなりひっくり返されちゃってます。
前作でキルモンガーとの戦いを繰り広げた結果、ティ・チャラ国王はこれまでワカンダが鎖国してきた歴史を反省し、これからは自国の技術やヴィブラニウムを世界に広げていくという方向性を掲げました。

それが今作になると、フランスにヴィブラニウムを奪われそうになったというきっかけから再び鎖国をしてしまいます。
しかもヴィブラニウムを奪おうとするのであれば戦争も辞さないという構えを示し、なんなら前作までの、目立たないように途上国のフリをしておく路線から一変、強硬路線になっています

ワカンダ国のこの後退が、ティ・チャラの不在によって起きたことだとも考えられますが(元々の続編案はサノスによってティ・チャラとシュリが不在となり、その5年間の間にワカンダが大変なことになるという話だった)、この映画が終わった時点ではこの件に関しては特に変更もなく、「ティ・チャラの意志を継ぐのだ」的な話もありませんでした。

しかもそう考えるとすると、たまたまティ・チャラが超偉大な人だったのであって、ワカンダ自体はそもそも大し褒められた国ではないという印象になってしまいます。
別にそれでも構いませんが、でも本当にそれでいいのか?とも思ってしまう違和感ポイントでした。

そもそもこの戦争いる?

これを言い出したら本作を全否定するような話になってしまうのですが、それでもやっぱり引っかかるところなので言わせていただきます。

タロカンとワカンダが戦争をするのはさすがに少々無理があったと思います。
ネイモアは「地上に戦争を仕掛ける我々タロカンに協力しないならワカンダを滅ぼす」とシュリを脅し、「タロカンはワカンダなど簡単に滅ぼせる」的なことまで言うのですが、そんなに強いのであればワカンダなど無視してさっさと地上と戦争をするべきだし、それを止めるためにワカンダが動くというほうが両者が対立する流れとしては自然ではないでしょうか。

ネイモアは幼少期にコンキスタドールの暴虐によって地上を追われたのが地上への恨みのきっかけです。
アメリカ人大学生がヴィブラニウム探知機を作るまではワカンダには何の恨みもないのだから、ワカンダに絡み行く時間があるなら早く地上に攻め込んだほうがいいでしょう。

そしてワカンダは、地上と戦争を始めたら大変なことになるし、亡きティ・チャラが救った地上の人々のためにも我々がここで食い止めてやる!というモチベーションで戦う方が多分アツくなるし、強硬路線というよりは融和路線であろう故ティ・チャラの意志を継ぐという意味でも、タロカンとワカンダで真っ向から対立するのではなく、守るべき地上の人々もいるということで仕方なくタロカンと敵対したほうが良かったのではないかと思えてなりません。

海底王国タロカンのショボさ

ここにもケチを付けてしまうのは大変申し訳ないですが、これもやっぱり映画を観ているそばから思ってしまいます。
海底王国タロカンに魅力がなさすぎます

まず暗すぎないでしょうか。
シュリがネイモアに案内されるくだりでは割としっかり真っ暗で、終盤でヴィブラニウムを使って太陽光を取り込む装置が登場しましたが、それがあってもまだまだ結構暗く、ワカンダに対抗できるほどの文明が発達した国家とは到底思えませんでした。
景色の奥の方はしっかり暗いので、巨大な海底王国のワクワク感というよりは、深海の暗くて怖い感じが出てしまっていました。

でもタロカン人が行っていたあの「ちっちゃいかめはめ波」ポーズは面白かったです。

また、タロカンの軍事力も少々疑問です。
ワカンダなんて一瞬で滅ぼせると豪語していましたが、明らかに強いのはネイモア一人だけであったし、人数もそれほど圧倒的に多かったようにも見えず、しかもまともに登場した兵器は謎の水爆弾のみという、どう見てもあまり強そうには思えない様子でした。

タロカン周りに関しては、センスの不足というよりは世界観の設定やデザインの練り込みが不足している印象なので、やはりここもチャドウィック・ボーズマン逝去によるシナリオ変更対応の影響かなとは思います。

二代目ブラックパンサー問題

本作最大の問題点です。
それが二代目ブラックパンサー問題です。

チャドウィック・ボーズマン/ティ・チャラが逝去したことによりブラックパンサーも不在となり、本作を通して妹のシュリが二代目ブラックパンサーを継ぐことになりました。

と思いきや、なんとティ・チャラには息子がいたのです!(ガーン)
その名もティ・チャラ!(ガビーン)

次のティ・チャラを用意してブラックパンサーを継がせるので安心してくださいと言わんばかりにミッドクレジットでティ・チャラの息子が登場します。
正直ここに関しては今でも意味が分かっていません。
いります?これ。

父と同じ名前の息子(というか隠し子だよねこれ)が新ワカンダ国王のシュリの前に突然現れるのです。
これではワカンダ国王は結局直系の男子しか継げないと言っているようにしか見えないし、シュリのブラックパンサーは正式な二代目ではなく息子が成長するまでの代役ですと言われているようで非常にがっかりです。

ティ・チャラに隠し子がいた!で喜べるわけないし、シュリのブラックパンサー全然よかったじゃん…
これは本当に何がしたかったのでしょうか、甚だ疑問です。

今後も同じ対応をするの?

RIP William Hurt: Remembering the MCU's formidable General Ross
©Marvel Studios.

別に本作のチャドウィック・ボーズマン追悼全振り路線を否定したいわけではないのですが、本作をみた結果一つ疑問が生じてきます。

それは、今後近い出来事が起きた際も毎回同じ対応をするのかということです。
MCUは既に10年以上続く大河ドラマとなっており、まだまだ終わることはありません。
これだけ長く続くシリーズとなれば、今回のように出演俳優が突然いなくなってしまうケースは今後も生じることでしょう。
そうしたケースが起きた際、そのたびに毎回今回のような追悼映画が製作されるのでしょうか。
それともチャドウィック・ボーズマンだけが特別なのでしょうか、それともティ・チャラだけが特別なのでしょうか。

2022年3月にサディアス・”サンダーボルト”・ロス将軍を演じていたウィリアム・ハートが亡くなりましたが、ロス将軍に関してはハリソン・フォードが代役を務めることで対応されました。

チャドウィック・ボーズマンを追悼したくないというわけではありません。しかし、ウィリアム・ハートのロス将軍とチャドウィック・ボーズマンのティ・チャラとでこれだけ対応に傾斜があるのはちょっとモヤります。
ティ・チャラが映画の主役だからといって代役を立ててはいけないわけではないし、代役を立てたからといってチャドウィック・ボーズマンを追悼していないことにもならないし、ロス将軍だって、代役を立てずに別キャラクターをロス将軍ポジションに据えて話を進めることだってできたはずです。

この対応の差はちょっとモヤるし、今後近いシチュエーションが生じた時にどのような対応になるのかは興味深いところです。

ただ、MCUのような形態の映画シリーズというのがそもそも前例のないものなので、マーベル側も必ずしも正しい対応が分かっておらず、常に模索している状況なのだろうとは思いますが。

MCUフェーズ4終了

Marvel unveils jam-packed Phase Four slate of movies, including 'Thor',  'Black Widow' and 'Eternals'

ブラック・ウィドウ』(2021)から始まった、サノス撃破後のストーリーを描くフェーズ4は本作にて終了しました。
皆さんは今回のフェーズはいかがだったでしょうか。
本フェーズはとにかく新ヒーローや新ヴィラン、新世代キャラクターたちの紹介に終始しており、『アベンジャーズ』等ヒーロー同士がアッセンブルする作品ががなかったため、区切りよくまとまっている印象はないかと思います。

アベンジャーズ /エンドゲーム』(2019)までのインフィニティ・サーガでしっかり物語が一つ完結したため、今回のマルチバース・サーガを語っていくにはどうしてもこうした準備期間は必要でしょう。
また、インフィニティ・サーガフィナーレの感動を超えるためには、これまでよりも長い準備期間が必要で、『アベンジャーズ』のようなアッセンブルはまだ時期が早いというのはよく分かります。(フェーズ5もアベンジャーズはない)

今後のMCUの展開を想像すれば、本フェーズがキャラクター紹介ばかりで、作品自体の面白さというよりは”今後への期待”で間を持たせている感満載になるのは仕方ないことでしょう。
仕方ないことですが、こうしたことが仕方ないのであると観客側が理解しながら作品を観ていくシリーズというのは、あまりにも異質というか、本当に斬新な映画文化だなとつくづく思います。

まさにドラマを何年もかけて観ているような感覚で映画を観ているわけで、これが良いことなのか悪いことなのかは、マーベルでさえもあまりよく分かっていないのかもしれません。

おわりに

最後なのでぶっちゃけてしまいますが、本作は割といろいろなところで褒められている気がします。
しかしそれは映画の出来がいいからというよりは、やはり本作がチャドウィック・ボーズマンの葬式であるがために、人の葬式の悪口を言うわけにはいかないということで批判が少ないのではないかと思います。

私は既にたくさん批判をしてしまいましたが、チャドウィック・ボーズマンの死去を置かせてもらうと、本作はなかなか厳しい出来だと思うし、俳優の葬式だからということで映画の出来には目を瞑らなければならない映画というのもちょっとどうかとは思います。

本作のような特殊な事例が、今後映画史の中でどのような認識のされ方をしていくのかは非常に興味深いところです。

おわり

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