作品情報
制作年 | 2021年 |
制作国 | アメリカ |
監督 | マイク・ミルズ |
出演 | ホアキン・フェニックス ウディ・ノーマン ギャビー・ホフマン |
上映時間 | 108分 |
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あらすじ
NYでラジオジャーナリストとして1人で暮らすジョニーは、妹から頼まれ、9歳の甥・ジェシーの面倒を数日間みることに。
引用元:公式サイト
LAの妹の家で突然始まった共同生活は、戸惑いの連続。好奇心旺盛なジェシーは、ジョニーのぎこちない兄妹関係やいまだ独身でいる理由、自分の父親の病気に関する疑問をストレートに投げかけ、ジョニーを困らせる一方で、ジョニーの仕事や録音機材に興味を示し、二人は次第に距離を縮めていく。
仕事のためNYに戻ることになったジョニーは、ジェシーを連れて行くことを決めるが…
マイク・ミルズ監督最新作です。
監督の前作『20センチュリー・ウーマン』(2016)年に引き続き、みんな大好きA24とマイク・ミルズのタッグに加え、『ジョーカー』(2019)であれだけガリガリだったのに気付けばおなかポンポコリンなホアキン・フェニックスが主演したということで、劇場へ駆けつけた方も多かったのではないでしょうか。
率直な感想としては、「良くも悪くも」マイク・ミルズ作品という印象でしたので、その「良くも悪くも」の部分を語っていければと思います。
私小説的マイク・ミルズ作品
「最も個人的なことが最もクリエイティブなことだ」という言葉は、ポン・ジュノ監督が引用したマーティン・スコセッシ監督の言葉ですが、マイク・ミルズ作品はこの考え方を地で行く映画です。
要するに私小説的な映画を撮る監督です。
『人生はビギナーズ』(2010)では父との関係、『20センチュリー・ウーマン』(2016)では母との関係、そして本作では自分の子供との関係にインスパイアされて作られました。
彼の映画に登場するのは基本的に「生きるのに不器用な人たち」が登場します。
現実世界では、時々明らかに「人生三週目くらいだろ」って言いたくなるような人もいますが、私を含め大抵の人は初めて人生を生きているので、この「生きるのに不器用な人たち」には痛く共感してしまうものです。
ただ、ここで早速根性のねじ曲がった私に一言言わせてもらいますと、彼の映画の登場人物、特に主人公については、不器用ではあるけどそんなに大した不器用さでもないと思うんですよね。
本作のジョニーで言えば、ラジオジャーナリストとして生計を立てられてる時点で割と社会的に成功しているし、妹と関係が拗れたと言っても、いきなり電話をかけて話をできている時点で少なくとも破綻はしていないし。
恋人と別れてしまって孤独を感じているだけに感じてしまいます。
私は『マンチェスター・バイ・ザ・シー』(2016)のような、深い傷を負った人間たちに対しての方が感情移入してしまう派なので、その点でいくとマイク・ミルズ作品は個人的にはあまり乗り切れない面があります。
この点に関しては監督本人も自覚しており、インタビューで「自分のようなそこそこ裕福な生まれの白人男性の物語なんて誰も興味ないよね」と語っており、だからこれまでの映画では監督自身を体現する主人公よりも、主人公を取り巻く周囲のキャラクターたちに主眼を置いて物語を作っていたと述べています。
ところが今回、ジョニーのみではないものの、ジェシーとセットという形で主人公を中央に据えた物語というアプローチをとりました。
その結果、私個人としては監督が過去作で持っていた懸念がしっかり生じてしまいました。
興味がないとまでは思いませんが、「ぶっ刺さって」きてはくれませんでした。
他者を通してしか自分は見えない
マイク・ミルズ作品では、上記のような監督の考えもあってか、「他者を通して自分を知る」「他者とつながることで自己を確立する」というテーマが通底しています。
『人生はビギナーズ』では父を通して、『20センチュリー・ウーマン』では母や同居人たちを通して、そして本作では甥のジェシーを通して、主人公は自己を相対化し、自己と世界との繋がり方を再確認します。
本作では「録音」という要素も主人公たちの自己相対化に非常に役立っています。
ジョニーが印象的なセリフを発します。
「平凡なものを不滅のものにするのはクールだ」と。
この「録音」というモチーフは、監督がインスパイア元であると公言しているヴィム・ヴェンダース監督の『都会のアリス』(1973)における「写真撮影」の変形です。
この『都会のアリス』に沿って言えば、ジョニーは自分が聞いたもの、もしくは自分の身に起きた出来事や思いを言葉にした音声を「録音」し、「不滅のもの」として外部化することで、世界に「自分が存在した証」を残せる(=クール)と言えます。
しかし実はこれだけでは不十分でした。
「他者の目線」「他者とのつながり」がないからです。
なので『都会のアリス』で言えば、中盤でアリスという少女が「私があなたを撮ってあげる」と言ってアリスが主人公フィリップを撮影するシーン(ここでフィリップが自分の映った写真を見る時、その写真にアリスの顔が反射しているという演出が最高)や、終盤には証明写真機的なところでツーショットの写真を撮るという展開が用意されています。
同様に本作では、「録音」のため「撮影」ほど映画的な演出が行えていない面はありますが、最終的にはジョニーがジェシーとの「二人の思い出」を「ジェシーに向けて」録音するという形で、二人の関係を「不滅のもの」とするエンディングを用意しています。
こうして本作は我々に大きな感動を与えてくれることになります。
子供だからこそ射抜ける真理
ジェシーをはじめインタビューに応えている子供たちは、まだ子供であるからこそジョニーや我々といった大人たちに真理を示してくれます。
この映画で行われている子供たちへのインタビューには台本を用意していなかったという演出も、この事実に説得力を与えます。
このあたりはまさにフランソワ・トリュフォー監督の『大人は判ってくれない』(1959)のにおけるジャン=ピエール・レオへのインタビューシーンを思い出させます。
子供がいかに冷静に大人たちを見ているのか、そして自分なりの意見や考えを持っているのかをこれでもかと見せてくれます。
(ただし、紹介される子供たちの発言がどれもあまりに楽観的、もしくは希望に満ちた前向きなものがほとんどで、発言の選定には少々恣意的なものを感じますが、この映画はドキュメンタリーではないし、私がひねくれているということで目を瞑ります。)
さて、主人公ジョニーは、ラジオジャーナリストという職業で日々子供たちにインタビューをしています。
つまり彼は日常的に「聞き手」に徹し続けているわけです。
そんな彼が甥であるジェシーと二人きりで過ごすなかで、ジョニーはジェシーから様々な問いかけを受けます。
ジョニーは「聞き手」から「話し手」に回らざるを得なくなり、相手(しかも子供)に自分考えを伝えるためにはまず自分が自分の考えを理解しなければならず、彼はおのずと自己と向き合うことになります。
ジョニーはジェシーからの質問攻めを受けることで、彼が普段インタビューしている子供たち同様に、真剣に自己と、そして世界と向き合います。
また、ジェシーはジョニーの言動に対して次々と鋭い指摘を行います。
彼のような子供は、まだ大人たちのように自らの主観に基づく凝り固まった固定観念には囚われておらず、社会的な立場や利害の関係ない存在であるがゆえ、大人たちに対して純粋に端的にためいらなく核心を突くことができます。
大人は、こうしたまだ社会に閉ざされていない存在からの視座に気付くことで、自己を相対化し、世界の中にある社会の中にいる自らの立ち位置を再認識できるようになります。
と言っても、本作に登場するジェシーという少年は、少々賢すぎやしないかと思う面も否めません。
さすがに次々と真理を突きすぎだろうと感じます。
似たようなテーマを描いた作品として、直近ではショーン・レヴィ監督の『アダム&アダム』(2022)があります。
こちらに登場するアダム少年も相当冷静で聡明な物分かりの良いキャラクターでしたが、この映画はゴリゴリのSFアクション映画ということもあって、そもそものリアリティラインが低めなので大して気にはなりません。
しかし本作の場合、現代を舞台にしたドラマであるため、ジェシーのあまりの「真理bot」具合には若干違和感を覚えます。
あの「木がつながりあっている」みたいな話、ちょっと「映画のテーマを示唆するセリフ」すぎないか。
というのは正直あります。
blah blah blah
劇中、ジェシーの問いかけに対してジョニーが適当な言葉を並べ立てて取り繕おうとすると、それをもれなく見抜くジェシーは、「blah blah blah」と言ってジョニーの発言を遮ります。
また、ジェシーはジョニーに対して「あなたは(僕の)お母さんと話をしていない」と指摘します。
ジョニーは「話はしてるよ」と返しますが、ここでいうジェシーの「話す」は当然<対話>を指しています。
ジェシーはジョニーに対して<会話>はできていても<対話>ができていないと指摘しています。
私はこここそが作中でジェシーが行う、大人たちへの最も重要な指摘であると思います。
我々大人は対話が本当に苦手です。
そして多くの人はそことに気付けないまま、<会話>をして<対話>をした気になっている場合がほとんどです。
ジェシーに言わせれば<対話>した気になっている<会話>は「blah blah blah」なのです。
「言葉」とは所詮コミュニケーションの道具に過ぎず、大事なのはその言葉の「中身」と、その言葉を使用する「人」です。
どんなに言葉 “だけ” を並べ立ててもそれは言葉でしかなく、せいぜいその伝えたい「中身」の近似値に迫ることしかできません。
重要なのは言葉の中身を理解するために、相手という「人」と生身で接すること。
具体的には、まさにジョニーとジェシーのように、同じ時や空間を共有することで言葉以外のコミュニケーションを実践せよということです。
実際ジェシーは、ジョニーがヴィヴに対して行うチャットというテキスト(言葉)のみによるコミュニケーションを否定します。
ソーシャルメディアなどに至っては、彼にとっては言語道断でしょう。
実際に彼はスマートフォンの使用自体をも批判します。
時間つぶしにはスマホで動画を見るよりも、紙とペンでのお絵かきを選択するような子供です。
ただここで一点、ジェシーに言わせればこんなものは本来的なコミュニケーションとは程遠いものなので、批判すること自体はよくわかりますが、あまりに直接的な批判をしてきます。
ここには少々説教臭さを感じてしまいます。
例えば前作『20センチュリー・ウーマン』では、同様のメッセージが含まれていましたが、そもそも時代設定的にスマートフォンなどが無い時代だったため、まだITが発達していない時代の人々のコミュニケーションを見ることで我々が自主的に反省するような作りになっていました。
それに対し本作は、ジェシーによる批判や、ラストシーンのジョニーの「スクリーンは一日二時間まで」発言など、直接的にテクノロジー頼りのコミュニケーションを批判してくるため、これが説教臭さに繋がっています。
書籍からの引用
最後に、私がマイク・ミルズ作品で最も引っかかる部分です。
マイク・ミルズ作品と言っても前作『20センチュリー・ウーマン』からかと思いますが、劇中で書籍からの文章の引用が複数回行われることです。
映画において書籍からの引用が行われる例として一般的なのは、映画の冒頭でエピグラフとして表示されるパターンでしょう。
この演出によって、その文章の概念や含意をテーマとして、それをこれから展開される映画表現によって深めたり、場合によっては否定したりといったことが行われます。
ここで重要なのは、引用される文章というのはあくまでその映画を受け取るための導入であるということです。
映画を引き立てるための一つの要素に過ぎません。
しかしマイク・ミルズ作品における引用を見ると、どうもそうは思えません。
冒頭ではなく劇中において、書籍のタイトルを字幕表示したうえでキャラクターに文章を読み上げさせるのです。
この演出がどうしても導入として映画を引き立てるための引用ではなく、映画の結論としての引用に見えてなりません。
「ここまで映画で描いてきた物語によって私が言いたいのはこういうことです」という、映画を “踏まえて” の結論であるように見えてしまいます。
映画を “踏まえて” 結論を引用という形で読み上げてしまうのであれば、それは初めからその本を読めば済む話になってしまわないでしょうか。
テーマを伝えるために本を読み上げてしまうのでは、もはやオーディオブックじゃないですか。
そのような本に書いてあるようなメッセージを、映像表現を用いて豊かに語っていくのが「映画」という表現ではないのでしょうか。
マイク・ミルズ監督自身の本業はどちらかというとミュージックビデオやコマーシャルの監督であるというキャリアも考えると、彼自身はそれほど映画には興味がない人なのかなと感じます。
おわりに
最後はまあまあしっかり批判してしまいましたが、トータルでは十分良い映画だと思っています。
お前が対話のつもりで喋ってるその話は対話じゃなくて会話だからな、というジェシーの指摘は本当に耳が痛いですね。
面と向かって話してもそんな状況なのに、ましてソーシャルメディア上で文字のやり取りをしているだけで人とつながった気になるのは、空しいどころか危険かもしれないですね。
これでは本当のコミュニケーションの取り方を忘れていって…blah blah blah…
おわり
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