作品情報
制作年 | 2021年 |
制作国 | アメリカ |
監督 | ジェイソン・ライトマン |
出演 | マッケンナ・グレイス フィン・ヴォルフハルト ポール・ラッド |
上映時間 | 124分 |
ポッドキャストでも配信中
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あらすじ
30年間にわたり原因不明の地震が頻発する田舎町。
引用元:公式サイト
そこで暮らし始めたフィービーは、祖父が遺した古びた屋敷で見たこともないハイテク装備の数々と〈ECTO-1〉と書かれた改造車を発見する。
科学者だった祖父イゴン・スペングラーは〈ゴーストバスターズ〉の一員で、30年前にニューヨークを襲ったゴースト達をこの町に封印していた。
地震の原因がゴーストの仕業だと突き止めたフィービー。
「なぜこんな場所に封印を?おじいちゃんが死んだとき一体なにが?」…祖父がこの町に隠した秘密に迫ろうとしたその時、ゴースト達の封印が解かれ、町中にあふれかえる。
いま、ゴースト達の復讐劇が始まる――
1984年の「ゴーストバスターズ」、1989年の「ゴーストバスターズ2」に続く32年ぶり(アメリカ基準)の続編です。
2016年に「ゴーストバスターズ」というリブート作品が公開されていますが、今回はその作品の続編ではなく「ゴーストバスターズ2」の続編になります。
といっても、本作を見る限り二作目の要素というのはレイが本屋を営んでいるくらいのもので、基本的にはほぼ一作目の続編といった印象でしたね。
今回はそんな、一度リブートした作品をなかったことにしてまで作った32年ぶりの続編がどのような作品だったのか、「ゴーストバスターズ」「ゴーストバスターズ2」「2016年版ゴーストバスターズ」の話も交えながら語っていきたいと思います。
この映画は誰に向けて作られたのか
本作は紛うことなき全力の「ノスタルジー映画」でした。
ただでさえ過去の大ヒット作の続編、リブート、スピンオフなどの焼き直しは否定的に捉えられる昨今、そうした作品が大ヒットし評価されるためには、ただのノスタルジーでは終わらないようにする工夫が求められています。
しかし本作は新しいゴーストバスターズを提示しているように見えて、実際大部分は単なるノスタルジーです。
どうしてそのような作品としたのか。
これはある意味合理的な判断に基づいてとられた選択だと思います。
その理由の一つは、この映画が誰に向けられて作られているのかです。
それはこの「ゴーストバスターズ」シリーズの社会的な背景を考えれば、そして実際に本作を見れば明らかではないでしょうか。
具体的に言えば、第一にターゲットとしているのは「2016年版ゴーストバスターズに不満があった人々」です。
なぜなら、結果として本作は2016年版の続編ではなくゴーストバスターズ2の続編として制作する、という選択をしているからです。
当然ながらその選択というのは同時に、リブート版の続編を作らないという選択を行っているのです。
まずはリブート作品に不満があった人々がどのような層かを改めて確認するために、「2016年版ゴーストバスターズ」という映画について振り返ろうと思います。
リブート版ゴーストバスターズ
この作品は2016年にポール・フェイグ監督、メリッサ・マッカーシー主演によって制作された「ゴーストバスターズ」シリーズのリブート作品です。
作られた背景としては、「ゴーストバスターズ2」公開後すぐに三作目の計画があったが、主演のビル・マーレイが続編の製作を拒否し続けていたことや、そうこうしているうちに2014年イゴン役のハロルド・レイミスが亡くなってしまったこともあり、続編ではなくリブートすることになったという事情がありました。
リブートにあたり過去2作品から最も大きく改変された設定が、ゴーストバスターズメンバーの性別です
これまでのゴーストバスターズは中年男性4人組であったのが、中年女性4人組へ変更されました。
この変更によって巻き起こったのが、後に「culture war」とまで表現されるような非常に大規模で過激な大炎上騒動です。
この炎上ぶりは記憶されている方も多いのではないでしょうか。
最も過激だったのは、主役4人の女性に対するルッキズム的な批判でした。
そもそもこれまでの男性4人組だって若くないし、容姿も優れいているとは言えないメンバーだったにも関わらず、性別が女性になった途端ルッキズム的批判が沸き起こる様は、まさにこの映画が描いていたように、社会が女性をいかに理不尽に扱うかというのを非常にわかりやすく表していました。
そして今振り返れば、この時のアンチフェミニズム勢力が代表していたオルタナ右翼と呼ばれる人々の多さや過激さというのが、2017年に爆誕するトランプ政権を予言しているようでした。
せっかくなのでこの映画に対する私の見方を述べておくと、多くの方が考えているように当時としてはかなり完成度の高いフェミニズム映画であり、これまでの男性社会に基づいて作られてきた映画に対して、数々のギャグによって逆説的に批判を行っているかなり鋭い映画であると思っています。
(ただしそれが各人にとって面白いかは別問題ですが)
具体例を挙げると、「主役の女性4人が主役にもかかわらず中年で見た目も良くない」「受付をしている美男(クリス・ヘムズワース)の頭の悪さが完全に度を越している」「女性が下半身周りの生々しい下ネタを何のためらいもなく言う」などです。
これらの要素は、アンチフェミニズムやミソジニー側の視点からするとこの映画の不満点になると思います。
しかしこれら要素の性別を男女入れ替えると、これらの描写は当たり前にいくらでも行われていることであるのがわかります。
全くイケメンではないおじさんが主役の映画はいくらでもあるし、明らかに度を越して頭の悪い美女ならいくらでもギャグとして描かれてきたし、男性であれば下半身周りの下ネタをいくら言っても許される風潮があります。
要するにこの映画は、男性視点で作られてきたコメディ映画に対して性別を男女入れ替えただけなので、炎上当時の批判を見ると、その多くがいかに女性蔑視に基づいているものであるかということが浮き彫りになってしまうキレッキレの映画でした。
唯一難点があるとすれば、私がそうなのですが、この映画が男女を入れ替える対象としているような旧来の男性中心主義的な映画やギャグをそもそも面白いと思わない人間にとっては、この映画を見てフェミニズム的メッセージは受け取れても、結局あまり面白くないという問題があります。
例えば、そもそも過度な下ネタ自体が嫌いであれば、それを言っているのが男だろうが女だろうが関係なく嫌いといったことなどです。
そして気の毒なことに、公開前から大騒ぎになってしまったせいでこの映画のメッセージを一番受け取るべきアンチフェミニズムの人々はこの映画を見に行っておらず、この騒動を踏まえてなお見に行こうとした人々だけがこの映画を見に行ってそこそこ楽しんだりそうでもなかったりといった調子で、最終的に興行収入としては失敗と言える結果となってしまいました。
そんな騒動を終え、このゴーストバスターズシリーズのとった選択というのが「この映画ではなくリブート前シリーズの続編を作る」というものでした。
繰り返しになりますが、「ゴーストバスターズ/アフターライフ」はリブート前シリーズの続編として作られました。
それは同時に、2016年版の続編は作らないという選択をしたことを意味します。
少々角の立つ言い方にはなりますが、つまり本作は2016年版を評価している人々よりも2016年版に不満がある人々、言い換えれば旧シリーズ “だけ” のファンを観客のメインターゲットにしたと言えます。
旧シリーズだけのファンという層は、アンチフェミニズムやミソジニー的な価値観を持った人々を少なからず含んでいます。
そうした層に向けて本作は作られています。
ただしこの選択は決して作り手側の思想の話ではなく、前作の興行収入を考慮した判断だと思うので、正直やむを得ない当然の選択だと思います。
戦略的な懐古主義路線
本作は旧シリーズの続編、それもほぼ一作目の続編とも言える設定になっています。
先ほども言った通り、こうした「なぜいまさら続編を?」と思われるような作品を作る場合は、この「なぜ」の部分を解決しなければ単に懐かしむだけのノスタルジー映画となり、映画としては評価しがたい作品になってしまいます。
直近でこの「なぜ」を見事に解決していたのが「マトリックス レザレクションズ」(2021)であり、続編ではないですが先日のクリント・イーストウッド作品「クライ・マッチョ」だと思います。
これらがどのように「なぜ」と向き合っているのかは過去にpodcastで喋っていますのでよろしければお聞きください。
あとはこちらは本ブログでは扱っていませんが、「ビルとテッドの時空旅行 音楽で世界を救え!」(2020)なんかも非常によくできた続編だと思います。
そんな中、本作は懐かしむためだけのノスタルジー映画路線へ舵を切っています。
これは確実に意図された方向性なのですが、なぜノスタルジーへ全力で振り切ったのかです。
そこで「この映画が誰に向けて作られたのか」の二点目です。
本作は一見親子向けのファミリームービーですが、全世代の親子向けではありません。
本作がターゲットとしている世代は「ゴーストバスターズ一作目を小さい頃に見て、子持ちであれば子供が現在10代くらいの親世代、もしくはそれ以上の世代」です。
強調しておきたいのは、実は親子向けというよりも主に親世代向けになっているということです。
まず本作全体の作りである「田舎×ジュブナイル」という「E.T.」(1982)が代表するスピルバーグテイストは、本来は親世代向けのモチーフであるものの「ストレンジャー・シングス」のおかげで子供たちもすんなり飲み込める設定にはなっているでしょう。
主人公のフィービーは、彼女は同世代から浮いた存在であり彼女自身に何か世代性の象徴が込められたキャラクターではないため、親世代が見ても主人公として自然に受け入れられます。
この主人公というのも、最後の最後は一瞬フィービーというよりお母さんになってしまうみたいなところがあるのでここも最終的には親世代向けになっていると言えます。
あまり子供に向けられていないと最も確信する要素は何かというと、一番はトレバーという人物の描写です。
トレバーは「ストレンジャー・シングス」でおなじみのフィン・ヴォルフハルトが演じており、ぱっと見は現在の若者を代表しているように見えます。
物事に対するシニカルな反応やスマホの電波に文句を言っているあたり、現在10代であるZ世代のキャラクターに一見思えます。
しかしその後の彼の行動はというと、一目惚れした女性を口説きに行いったり、古い車を自分一人で修理しています。
これらは明らかに現代の若者の行動ではなく、どちらかと言えばこの映画を子供と見に来る親世代が若い頃の行動です。
トレバーというキャラクターは、子供よりも親世代の大人が感情移入するためのキャラクターになっています。
劇中に登場する「ラジコン」というガジェットも親世代向けのモチーフであると思われます。
用意しているのがもうおじいさんのイゴンであるとはいえ、2021年という舞台設定であることや、そもそも80年代の時点でプロトンパックなどというオーバーテクノロジーを駆使するイゴンがなぜあえてドローンなどではなくラジコンをチョイスしているのか少し疑問です。
そもそもプロトンパックが一つも進化していないというのも不自然です。
現代にもゴーストバスティングがあるなら、それこそ2016年版のように新しいガジェットが発明されていてもいいはずです。
イゴンほどの技術があれば、プロトンパックの動力を胸のあたりに着けて、全身を金属の鎧で覆って空なんかも飛べるようにして、そんなスーツならゴーザなんて一人で倒せたんじゃないですかね。
このように新しいテクノロジーによるゴーストバスティングではなく一作目のガジェットをそのまま登場させているということで、これらもやはり実は本作が子供よりも親をターゲットにしている証拠の一つではないかと思います。
このように、なぜ「現在10代の子供がいる親世代」以上がターゲットに絞られているかというと、これらの世代と「2016年版に不満を持った人々」がある程度重なっているからです。
この意見に私自身の偏見が入っていることは認めます。
しかし諸説はあるものの、2016年当時リブート版ゴーストバスターズを徹底的に批判していたいわゆるオルタナ右翼と呼ばれる人々は、当時から30~40代前後がメイン層と言われていました。
また、白人至上主義や排外主義を掲げる彼ら彼女らは80年代カルチャーを好む傾向にあると言われています。
なぜなら80年代が白人たちにとって最後の自由な時代だったためです。
劇中でポール・ラッド演じるゲイリーが生徒に見せる映画も、「クジョー」(1983)と「チャイルド・プレイ」(1988)というきっちり80年代チョイスでした。
以上から、2016年版ゴーストバスターズに不満があった人々を取り込むためには1984年公開の一作目と80年代カルチャーを全力で懐古できるように作るべきという結論に至ったため、必然的に本作はこのようなノスタルジー映画になったのだと思います。
近年稀にみるノスタルジー映画
そんなわけで本作は徹底的にゴーストバスターズ一作目への懐古という路線を貫きました
劇中では様々な要素や演出で一作目を踏襲しています。
先に細かい部分から指摘しておくと、一作目と同じボケを行っていたり、一作目のオープニングで印象的な「横向きで高く積まれた本」が映っていたり、シリーズお決まりの展開である「逮捕される」や「メンバーの誰かしらが何かにまみれる」といった要素がきっちり受け継がれていました。
ただし本作で非常に印象的な一作目の踏襲というと、「ECTO-1」と「マシュマロマン」でしょう。
ECTO-1は全作品においてキャデラックがモデルですが、一作目のECTO-1は救急車をベースに作られた車で、このデザインが多くのゴーストバスターズファンを惹きつけました。
しかしゴーストバスターズ2ではこのECTO-1がモデルチェンジしており、霊柩車をベースにした車になってしまい、これが当時一部のファンには不評でした。
そこで本作のECTO-1はというと、改造は施されていましたが基本的には一作目のECTO-1が使用されていました。
ここでしっかり一作目を踏襲することで一作目へのノスタルジーが刺激されます。
もう一点が「マシュマロマン」登場シーンです。
ゲイリーがたくさんの小さなマシュマロマンと遭遇するシーンというのが予告編でも大々的に扱われるほどフィーチャーされていました。
マシュマロマンが登場するのはいいのですが、あまりにも必然性のない登場であり完全に「取ってつけた」とはこのことといったキャラクターになっていました。
さらに言えば本作の大きなツッコミどころにもなってしまっています。
一作目に登場したマシュマロマンというのはただのゴーストではなく、レイの想像に基づいてゴーザが作り上げた怪物です。
そんなマシュマロマンが、ゴーザもまだいないのに、小さいサイズで、大量に、まるで「グレムリン」(1984)のように突然発生する理由がイマイチわかりません。
思いつく理由といえば結局「一作目の代名詞的なキャラだから」くらいです。
これら一つひとつはもちろん私も嫌いだとは言いませんし、楽しい描写だとは思います。
しかしこれらの踏襲と言うのはどれも非常に表面的です。
やはり懐かしむ以上の機能は特に果たしていません。
そしてこのノスタルジーが頂点に達するのが本作のクライマックスです。
問題のクライマックス
既に見出しの時点で「問題の」と書いてしまいましたが、やはり本作において最も議論が必要なのはこのクライマックスではないでしょうか。
それはもちろん、「オリジナルメンバーの登場」です。
やはり感じられない必然性
ビル・マーレイがジャンプスーツを着て、プロトンパックを背負ってしっかりピーター・ヴェンクマン博士をやっていたことに対して正直グッと来たのは認めます。よかったです。
ただ申し訳ないのですが、我々はつい先日「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」を見ています。
やはりこのスパイダーマンと比べてしまうと、本作のオリジナルメンバー登場の理由がファンサービスのため、懐かしむため以上のものがないという事実がどうしても気になります。
本作は本来であれば2020年公開予定だった作品なので、そうであればスパイダーマンよりもマトリックスよりも先に見られて、そうすればここは今ほど気にならなかったように思うのでちょっとかわいそうなのは否めないですね。
大体イゴンが勝手に基地を空っぽにして出ていったと言っていたのに、そのプロトンパックとジャンプスーツはどこから持ってきたんだっていうツッコミもありますが、そこはもう大丈夫です。
本作で最も気になってしまうのは、この点です。
イゴン・スペングラーの登場
フィービーに手を添えて登場した時はまさかアンチェインド・メロディが流れるんじゃないかと思いましたが、皆さんはこのイゴン・スペングラーが登場してしまうクライマックスはどう感じましたでしょうか。
確かにオリジナルメンバーが4人並ぶところは見たいけれども、それをCGで作り上げてそれを見て喜んで、果たしてそれでいいのかという複雑な感情になりますよね。
「ワイルドスピード」シリーズにおけるポール・ウォーカーの場合は、姿は見せないという形で彼が演じていたブライアンというキャラクターを生かすという選択をしていますが、本作はハロルド・レイミスという俳優と一緒にイゴン・スペングラーというキャラクターを成仏させていました。
そこに水を差すべきではないのは重々承知ですが、しかしどうしてもこのイゴンの登場によって生じてしまうとても気になる点があります。
それは、「イゴンとゴーストの違いは何なのか」です。
イゴン登場時、最初は本当に表れたわけではなくあの場の彼ら彼女らにはそう見えているという描写かと思いましたが、最後にお母さんのキャリーとしっかり抱き合ってるので本当にそこにいたっぽいんですよね、質量ありそうなんですよね。
気になるのはラストで、一作目や本作のゴーストというのは基本的に人間社会に対して害のある存在で、見た目も基本的には醜く、殺したり消したりすることはできず捕獲することで対処しています。
しかしイゴンはとうと、まず見た目は生前そのもので登場し、主人公たちと協力してゴーザを倒して最後は空に向かって消えていきます。
明らかに本作におけるゴーストとは異なる存在として描かれており、むしろイゴンの方が霊的な存在という本来的な意味でのゴーストに近い気がします。
ではマンチャ―や終盤で街に大量発生したゴーストたちのような、本作におけるゴーストというのはどのような存在なのでしょうか。
そもそもこのゴーストバスターズシリーズというのは、「ゴーストとは何なのか」という問題をあえて考えさせないことで娯楽大作として成功していたように思います。
しかし本作は、イゴンというゴーストとは異なるゴースト的な存在が出てきてしまったことで、ここまで意識せずにいることができた「ゴーストの意味」を我々に考えさせてしまいます。
先ほど、本作が行っている一作目の踏襲は非常に表面的だと述べましたが、このゴーストの考え方というのも踏襲が表面的である証だと思います。
ゴーストバスターズの社会的メッセージ
フェミニズム全開だった2016年版はもちろん、「ゴーストバスターズ」と「ゴーストバスターズ2」についても超がつく娯楽作品ですが実は非常に社会的メッセージの込められた映画です。
新自由主義の象徴としてのゴーストバスターズ
一作目において登場するゴーストや超常現象というのは、警察など政府の力では対処しきれないニューヨーク市内の犯罪や環境汚染といった社会問題を象徴しています。
それらの社会問題に対して、ゴーストバスターズという民間企業が政府の代わりにビジネスとして対応しているのです。
映画の終盤では、ニューヨーク市長が今後の選挙での得票のために、ゴースト退治を政府で対応するのではなくゴーストバスターズへ正式に委託します。
政府が対応できない業務を民間企業へアウトソーシングしているということです。
これはまさに1980年代に登場し始めた新自由主義的政策を表しています。
「ゴーストバスターズ」は当時のレーガン政権が行っていたレーガノミクス、新自由主義的政策を推進するメッセージが込められた映画だと現在では分析されています。
ついでに述べておくと二作目についても社会的メッセージは色濃く残っており、この映画では人間の負の感情が具現化したものだとされるスライムが登場します。
このニューヨーク市民たちの抱える負の感情がついにあふれ出し、これを何とかしようと「この街の300万人がイライラ野郎」だから政府は社会問題に対策すべきだとゴーストバスターズが市長へ直談判するも拒否されてしまう場面があります。
最終的にゴーストバスターズは負の感情を操る悪役ビーゴに対して、市民たちのオールド・ラング・サイン(蛍の光)の合唱という人々のpositivity、積極性の感情の力によって勝利します。
本作はどうか
このように、過去作は非常に社会的メッセージが込められた作品になっていますが、本作はどうでしょうか。
本作はどうやらそこまでの掘り下げは行なわないという選択をしているため、過去作オマージュというのが終始表面的なものとなっている印象です。
その結果マンチャ―とイゴンという二種類のゴースト的なるものが登場し、ゴーストが何なのか考えさせてしまう割にはよくわからないということになっていると思います。
政府機関との絡みというのも逮捕シーンくらいのもので社会的メッセージもとくに見当たりません
やはり単に昔を懐かしむだけの映画になっていると言えるでしょう。
おわりに
今回はかなり辛辣な感想になってしまいました。
やはりリアルタイム世代ではないのが大きかったのだと思います。
僕もスパイダーマンだったら単なるノスタルジー映画でも全然許しちゃう可能性ありますからね。
しかし今や我々はレザレクションズやノー・ウェイ・ホームを見てしまっているので、単にノスタルジーだけで終わられてしまうとそれほど価値を見出せないのが正直なところです。
しかも本作は、フィービーという新ゴーストバスターを登場させておきながら、結局最後はオリジナルキャスト同士の会話シーンやECTO-1がウィンストンの手によってニューヨークへ戻ってくるという、若干嫌な気持ちにすらなるほど閉じた話です。
この全力のノスタルジーを評価する意見も多いようですが、そんなにいい話ですかね…これ。
野暮だとは思いますがどうしてもツッコんでおきたい点を最後に指摘して終わろうと思います。
なぜ本作の人々はゲイリー以外ゴーストやゴーストバスターズのことを覚えていないのでしょうか。
当時まだ生まれていなかったとしても、マシュマロマンとかいうふざけた怪物にニューヨークが破壊されたなんて、歴史として絶対教えられるはずだし、ネット上にゴーストバスターズの動画があるならなおさら全員ゴーストがこの世にいることは知っているはずです。
本当に2の続編でもあるなら、自由の女神がニューヨークを闊歩したことだって歴史に残っているはずです。
なのにゲイリー以外の大人はなぜかゴーストやゴーストバスターズを信じていないし、フィービーたちはゴーストバスターズの存在も、祖父がメンバーだったことも知らないんですよね。
ゴーストバスターズが実在する世界で、現代の子供たちがゴーストバスターズの動画を見つけられないなんてことありますかね。
ここでもやっぱり、本作に登場する子供というのは実際の2021年を生きる子供たちではなく1980年代の子供たちなのだなあと実感させられますね。
とにかく、80年代に青春時代を送ってきた世代でもなく現在青春時代を送っているわけでもないちょうど間の世代になってしまっている私のような世代はあまりお呼びじゃなかったということでしょうかね。
おわり
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