作品情報
制作年 | 2021年 |
制作国 | アメリカ |
監督 | アダム・マッケイ |
出演 | レオナルド・ディカプリオ ジェニファー・ローレンス |
上映時間 | 138分 |
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あらすじ
落ちこぼれ気味の天文学者ランドール・ミンディ教授はある日、教え子の大学院生ケイトとともに、地球に衝突する恐れがある巨大彗星の存在を発見し、世界中の人々に迫りくる危機を知らせようと躍起になる。
引用元:映画.com
仲間の協力も得て、オーリアン大統領とその息子で大統領補佐官のジェイソンと対面する機会を得たり、陽気な朝のテレビ番組「デイリー・リップ」に出演するなどして、熱心に危機を訴えてまわる2人。
しかし人類への警告は至難の業で、空回りしてばかり。
そのうちに事態は思わぬ方向へと転がっていき……。
少々話題にするのが遅くなってしまいましたが、やっぱりこの映画の話はしておきたいなという思いがずっとあったため、こんなタイミングですが「ドント・ルック・アップ」の話をしてみたいと思います。
本作は劇場公開が2021年12月10日、Netflixでの配信が同年の12月24日でした。
私はNetflixで昨年末に鑑賞したのですが、この時期に見られたのは非常にちょうどよかったです。
この映画は2021年という年の締めくくりにふさわしい映画だったのではないでしょうか。
余談ですが、昨年12月27日から同じくNetflixで配信が始まった「Death to 2021」というモキュメンタリ―映画があります。
こちらは「Death to 2020」から始まったシリーズであり、コロナ禍以降の世界を皮肉たっぷりに振り返る年末らしい作品です。
「ドント・ルック・アップ」と「Death to 2021」をセットで鑑賞いただくと、この現代社会に対してとても悲しい気持ちになれるのでとってもオススメです。
痛烈な現代アメリカ批判
ブラック・コメディや風刺の名手であるアダム・マッケイ監督ですが、本作はアダム・マッケイ史上最高の攻撃力と最大の射程範囲で、現代のアメリカを痛烈に批判してみせた作品だと思います。
本作の属するジャンルとしてはコメディ、その中でもブラック・コメディになるかと思いますが、多くの人が感じている通り、もはやブラック・コメディとしてももう笑えないくらいあまりに現実が描け過ぎている作品だと思います。
ブラック・コメディというと、「こんなの笑えないよ」という笑いや「こんなのもう笑うしかない」という笑いを起こしていくものだと思いますが、本作は「こんなの笑えないよ」という笑い方もできないくらい「こんなの笑えないよ」と思ってしまう作品になっていました。
見出しには「アメリカ批判」と書きましたが、もちろん本作で描かれる問題はアメリカだけで起きている問題ではありません。
本作の舞台が地球全土となっているように、本作で描かれる社会問題は世界中で起きていることであり、当然日本も例外ではないのです。
本作では現代社会に蔓延る様々な問題に対する批判が展開されていますが、今回は大きく三つの批判テーマに沿って感想を述べていこうと思います。
どれもテーマ自体はベタ中のベタですが、本作はそれらに対する批判の攻撃力が圧倒的でした。
その1:メディア批判
メディア批判は本当にわかりやすく描かれていましたね。
特に本作で描かれたマスメディアの体たらくというのは日本も笑っている場合ではないし、なんなら日本の方が深刻なのではないでしょうか。
ジャーナリズムの崩壊
本作では、情報が氾濫するこの現代社会において真実を伝えることはいかに困難かというテーマが描かれていました
そしてそれを困難にしている一因は、ジャーナリズムの崩壊です
このジャーナリズムの崩壊を象徴していたのが、劇中に登場する情報番組「the daily rip」です。
ここで司会を務めていたケイト・ブランシェットは普段と雰囲気の違う驚きの軽薄さでさすがの演技でしたが、彼女は番組中に「この番組は悪いニュースも楽しく取り上げるの」と言っていました。
ニューヨーク・ヘラルド紙の記者の発言も印象的でした。
「真実を伝えることの何が悪いんだ」と言ったミンディに対して、記者の一人が「君にはメディア訓練が必要だ」と指摘します。
これらの発言が全てを表していて、こうしたテレビ番組や新聞、つまりマスメディアというのは真実を伝えるというのは二の次で、視聴者や読者に不快な思いをさせない、つまりいかに消費者を獲得するかが第一優先なのです。
換言すれば、番組の視聴率を上げるためであればどんなニュースであろうとエンターテインメントとして消費してしまうし、扱うニュースというのも内容ではなくエンターテインメント性で決まります。
そのため実感のわかない地球滅亡の話題よりも、身近な有名人の恋愛話の方が大事なニュースになってしまいます。
有名人の不倫がその日のトップニュースになってしまう我々日本人にも耳が痛い話ではないでしょうか。
メディア側だけが悪いわけでもない
人々に真実を伝えることが難しいことの原因は、情報を伝える側だけの問題ではありません。
情報を受け取る側のリテラシーにも問題があります。
極めて高度になっている現在の情報社会においては、各人による情報の取捨選択が重要になってきます。
テクノロジーの進歩によって、人々は膨大な数のあらゆる情報に対して容易にアクセスできます。
ここで人々は、能動的に様々な情報を吟味して最も真実に近いであろう情報を選び取ることが求められるのですが、もし能動的な情報の取捨選択を行わなかった場合、テレビから受動的にしか情報を受け取ることのできない the daily rip 視聴者層のような人々になってしまいます。
一方で能動的に情報を選択しようとする人でも、その選び方によっては正しい情報を得ることができません。
その最もよくある取捨選択の失敗は本作の中でも印象的に描かれていました。
それは、初めてミンディたちから彗星衝突の報告を受けた際の大統領やニューヨーク・ヘラルド紙のアドゥル記者です。
大統領はミンディたちが無名の研究者だからと彼らの報告を信用せず、アドゥル記者の方もミンディたちではなくNASAの博士やNASAの長官が何と言ったかで信用するかどうかを決めています。
つまり、自分で情報を確認して選び取るのではなく、権威主義によって取捨選択をしています。
その結果アドゥル記者の場合、NASAの長官が元麻酔科医で大統領の大口支援者であるというミンディがググれば2秒で出てくる情報すら確認せず、「NASAの長官が言っているから」という理由だけでミンディたちの情報が嘘であると信じ込みます。
「〇〇がこう言っているから正しい or 間違っている」という権威主義的な価値判断は、私も含め現代の高度情報化社会を生きる人々には最も陥りやすい思考停止ですよね。
「〇〇がこう言っているのは一体なぜなのか」を自ら検証して、自分の頭で物事を判断していくことを怠らないよう心がけたいものです。
現実はもっと深刻
上記のようなわかりやすい無知と思考停止による取捨選択の失敗は本作で直接的に描かれていますが、一方で現実の情報社会は現在もっと恐ろしい状況になっています。
それは、上で述べた「受動的にしか情報に触れない人」でも「情報の取捨選択を誤る人」でもなく、「自分は能動的に情報を集めて正しく取捨選択をしている」と思っている人でも「自分の見たいものしか見ない」という状況に陥っている場合があるということです。
例えば「検索エンジンのサジェスト」です。
我々は検索エンジンを使うことで、調べたいテーマについてインターネット上から様々な情報を得ることができます。
検索ボックスに単語を入れた際、検索ワードの候補を自動的に表示する機能がサジェストもしくはオートコンプリート機能と呼びます。
そこで表示される語句は単に検索数の多い語句ということではありません。
ユーザーの住む地域や使う言語、ユーザーの過去の検索履歴などを考慮したものが表示されており、万人が同じサジェストを目にしているわけではありません。
検索エンジンがなぜそんなアルゴリズムで動くかというと、なるべくユーザーの見たい情報ばかりを見せ続けた方が、インターネットの接続時間が増えて広告を見せる時間を獲得できるからです。
その結果ユーザーにとっては、調べれば調べるほど自分の見たい情報ばかりが次々に見つかるため、自分の思い込みや誤解が、能動的な情報収集によってむしろ強化されてしまうという状況につながります。
この状況の行き着いた先が、後ほど話題にも取り上げますが陰謀論の台頭やイデオロギーによる市民の分断ではないでしょうか。
このように我々は、自分で意識していなくても初めから自分が見たいと思っている情報の中からしか取捨選択をしていないという状況に半ば避けられない形で置かれているのです。
その2:ビッグテック批判
本作で最も印象的だったキャラクターの一人が、マーク・ライランス演じるピーター・イッシャーウェルという人物です。
このキャラクターはスティーブ・ジョブズ感やジェフ・ベゾス感、イーロン・マスク感などビッグテックを代表する実在の人物たちの要素が入りつつも、しっかりオリジナルキャラ感も感じられる素晴らしいキャラ造形だったのではないでしょうか。
彼を用いて描かれたのが、現在そしてこれからの世界を支配していく「ビッグテック」たちへの批判的な目線です。
新反動主義
ピーターは自身の事業のことを「ビジネスなんかじゃない、進化だよ」と言っており、自分以外の人間は基本的に全員見下している人物でした。
テック業界を中心にこうした思想を実際に掲げている人たちがいます。
彼らのことを「新反動主義者」と呼び、ピーター・イッシャーウェルというキャラクターは新反動主義を代表したキャラクターでした。
私は専門家ではないので不正確な部分もあると思いますが、ざっくり新反動主義を説明すると
「もうこの世界には愚民しかおらず民主主義は機能しない、というのは現在の世界を見れば明らかなので、我々エリートがテクノロジーによって社会をデザインする。
愚かな一般大衆たちは、エリートがデザインしたシステムに乗っかってくれればうまくいくので、大衆は黙ってエリートに従うべき。
社会システムを完璧にデザインするためにはまだテクノロジーが発達しきっていないので、そのためにはまず現在まで続いている資本主義に基づく競争社会をさらに加速させて、なるべく早くシンギュラリティを起こすべきである。」
といった考え方が主な思想です。
まさにピーターはこのような思想を体現した人物でした。
彼は劇中で「LiiF(ライフ)」と呼ばれるサービスを展開しており、消費者本人が購買意欲を自覚する前に商品を購入したり、医者よりも早く病気を発見できるなど、すでにシンギュラリティへ片足突っ込んだテクノロジーを開発していました。
現実では
現実世界で現在話題のテクノロジーと言えば「メタバース」ですよね。
現時点ではまだ、過去に「Second Life」がイマイチ流行らなかったんだから別に流行らないでしょ、という意見も多いと思います。
ただ、それこそ「加速主義」によって富の独占や格差の拡大、環境破壊の進行などがこのままますます広がっていけば、現実世界で生きることに苦痛を感じる人々は今後世界中で増えていくと思われます。
そうなると、「マトリックス」におけるサイファーというキャラクターのように、「現実よりも仮想現実で暮らしていたい」という需要は増えることとなり、そんな需要に応えるのが「メタバース」となるのです。
エリートだろうが丸裸にした瞬間無力
本作ではそんなエリートたちに対して身もふたもないオチを付けています。
「進化だか何だか知らんけど、身ぐるみ剥いでインターネットもなきゃ何もできないくせに偉ぶるんじゃないぞ」ってことですね。
まさに「お前それサバンナでも同じこと言えんの?」の実写化だったのではないでしょうか。
その3:政治全般への批判
最後にもう一つ印象的だったテーマというと、政治に関する批判的な目線だと思います。
メリル・ストリープ演じる大統領はモロにドナルド・トランプ前大統領のパロディ的なキャラクターになっていました。
ストレートなトランプ批判
本作に登場したオーリアン大統領は、自分が選挙に当選すれば何でもよい、地球滅亡なんかより大統領選が大事という、ポピュリストであったトランプ前大統領の人物像を誇張したようなキャラクターであったことは言うまでもないでしょう。
イデオロギーによる国民の分断
本作のタイトルにもなっている「ドント・ルック・アップ運動」は近年の世界、特にアメリカの情勢を象徴した運動でした。
ミンディたちの主張を覆すような具体的なデータは何もないのに、「彗星が飛んでくるなんて嘘だ」「地球が滅ぶなんて信じない」「これは陰謀である」と言いだす人々の様子はまさに現実で起きているままです。
地球全土の規模でパンデミックになっていても「コロナなんて嘘だ」という人々が世界中に一定数いることや、いくらファクトチェックが行われても「不正選挙だ」と信じ込むトランプ支持者だったり、「Qアノン」信奉者を公言する議員が選挙で当選するといったことが現実に起きています。
これらの現実に目を向ければ、ドント・ルック・アップ運動はもはや風刺というより「現実をもう少しわかりやすくしただけで大して誇張されていない」のが実感できると思います。
つまり、ドント・ルック・アップ運動というバカげた運動がそれほどバカげて見えないほど現実がバカげたことになってしまっているということです。
批判の対象はリベラルにも向けられている
本作が風刺の対象としているのはドント・ルック・アップ運動側だけではありません。
「ジャスト・ルック・アップ運動」、つまりリベラル側へも向けられています。
彗星で地球が滅ぶなんて信じないと言い張るドント・ルック・アップ側はとても滑稽なものとして描かれていますが、ミンディたち率いるジャスト・ルック・アップ陣営も全く同じように滑稽です。
空を見上げるなと叫び続けるドント・ルック・アップ運動に対し、空を見上げろと言って対抗するわけですが、見上げたところでどうにもなりません。
ジャスト・ルック・アップ陣営がやることと言えばソーシャルメディアで何か言うだけ、もしくは運動のシンボルが描かれた缶バッジをつけてチャリティーコンサートです。
ソーシャルメディアでいくら発言しようが、空を見上げろといくら懸命に歌ったところで彗星の軌道もスピードも何も変わりません。
口先で何かを言っただけで満足する、または無意味なことをして何かをやった気になっているという点で、ドント・ルック・アップもジャスト・ルック・アップも同レベルなのです。
現実に置き換えれば、トランプ支持者や保守派といった人々も、彼ら彼女らを非難して見下しているようなリベラルも結局は大差なく、お互いが見下しあうばかりで物事が進展しないという点でどちらもダメだということでしょう。
地球滅亡という結末
本作は、約半年後に彗星が地球に衝突することで確実に地球が滅亡するとわかっていながら、彗星を実際に目にするまで、なんなら目にした後でもなおどうすることもできない人類の姿を描いています。
本作において「彗星の衝突」で描かれた「このままでは近い将来に我々が滅びる」という問題は、既に周知の通り、現実世界で言うと「環境問題」に当たります。
現在進行中である環境破壊をこのまま放置し続ければ、将来的に人類が滅亡する可能性はあります。
しかし、我々人類はその事実を共有していながらも、この環境問題を解決するために本気で動くことはできません。
解決のために動いていない、もしくはピーター・イッシャーウェルのようなテック界のエリートは、今以上にテクノロジーの進歩を加速させれば、テクノロジーによって環境問題をも解決できると考えています。
どちらにせよ我々人類は、まさに今この瞬間も「ドント・ルック・アップ」のルートを突き進んでいるのです。
彗星は着実に地球へ向かって飛んできているにも関わらず。
そして、おそらく人類は「ドント・ルック・アップ」のルートを走り切るでしょう。
なぜならば、新型コロナウイルスのパンデミックという近い将来でもないリアルタイムに起こった人類の危機に直面しても、我々が民族や国境を越えて真に協力し合うことはできず、それどころか各国内で国民同士が対立してばかりだからです。
人々が実際に彗星を目にしてもなお協力し合えないという状況は、既に現実で起きてしまったと言っても過言ではないと思います。
人類が滅亡を回避する道はないのか
劇中で人類の滅亡を回避するルートはなかったのかと思い返すと、考えられるのはアメリカがロシア・中国・インド3か国の軌道修正計画を潰した場面でしょう。
ミンディもここで思わず絶叫していましたが、観客たちとしても「ここでアメリカが余計なことをせずに協力できていれば…」と感じてしまいます。
しかし現在の世界を見れば、はっきり言って人類がそんな道に進むことなどもうできないと言えるでしょう。
現在の世界は、新自由主義に基づく資本主義社会というものがもう行くとこまで行ってしまっている面があり、もはや人々が自己の利益を度外視して他者と協力するなどということはできない時代に突入しています。
新反動主義者たちが顕著な例で、「富の再配分などいらない」と堂々と言い切るほど自国の国民に対しても仲間意識といったものは既になく、「海の上に自分たちの国を作るから」と言い出して本当に着手するほどです。
もっと卑近な例を出せば我々の住む日本でも、国内では非常に有名で影響力も持っているような某メンタリストが、「ホームレスは死んでも構わない」と堂々と世界に向けて発信していました。
そして大事なのは、この主張に対して同調する意見も多かったということです。
生活保護制度に関しても、受給している人を見るとその人の事情など一つも知らないにも関わらず問答無用でクズ認定をするし、実際にはわずかな比率しかいないのに真っ先に不正受給を疑います。
要するに、現代社会には社会福祉という概念がとても希薄になった人々が増え、特に自分より弱い立場の人間に対しては「こいつらを助けたり、こいつらと協力してこっちに何か得あんの?」というマインドがもう浸透してしまっているのです。
赤の他人とはもはや損得勘定でしか関われない、そしてこの「赤の他人」と設定する範囲も昔より広がっているという状況が年々深刻化しており、とくに改善の兆しもなく、そもそも改善しようとも思っていません。
他人の利益など自分にとっては損でしかなく、自分より幸せそうな人間がいれば嫉妬するし、自分の利益を損ねる人間がいれば足を引っ張りあう。
今の日本社会が全くそうであるように、現代とはそういう時代ではないでしょうか。
本作に話を戻すと、世界中にこのような人々が溢れている現在、未曽有の鉱物利権が目の前にある状況でアメリカ、ロシア、中国、インドといった大国が力を合わせることなどできるでしょうか。
はっきり言ってありえません。
どの国も本作のアメリカのように、「もし自分たち以外にこの利益がもたらされるくらいなら地球ごと滅んだ方がマシ」と考えるのが自然だと思います。
つまりは、人類というのはもはやこんな状況なので本作が辿った結末以外のルートなどは存在せず、「こんな人類はもはや滅びるしかない」というのがこの映画が真に示しているメッセージだと思います。
この映画が批判している「人々」の射程
本作は、現代社会で生きているあらゆる種類の「人々」を批判し、「もはや滅びる以外の道はない」という結論を提示していますが、その「人々」には当然我々観客も含まれています。
なぜなら、本作の観客と言うのも結局この映画を見て「面白い」「全然笑えない」などと言いながらエンタメとして消費するだけで、実際に人類滅亡を回避しようと人々が動くことはないからです。
いくら大勢の人々がこの映画を見て「人類がこのままである限り滅亡以外道はない」というメッセージを受け取っても、実際のところ世界は変わりません。
本作で描かれてきた人々と全く同じように、本気で真に受けるような人間はいないし、人々がやることと言えば、せいぜい私のようにインターネット上でだらだら感想を “無意味に” 書き連ねるだけです。
だから、やっぱり人類はこのまま滅びていくしかないのです。
滅びるしかない我々は滅亡までどう過ごすのか
もう滅びていくしか道がない我々ですが、そうは言っても日々人生を生きています。
自分が死ぬまでの残りの人生をどう過ごすのか、そこへの回答と言うのが本作のラストシーンだと思います。
つまり、信頼しあえる、愛し合える家族や仲間たちと共に同じ時や空間を過ごすということです。
世界がこれから良くなることなどもうないし、滅んでいくことは止められないけれど、せめて自分たちだけでも、自分たちの周囲だけでも信頼し合って、愛し合いながら残された時間を過ごそう、ということくらいしか人類の滅亡に関して今一人ひとりができることはない、というのが本作の結論に対する回答なのではないでしょうか。
おわりに
ここまで散々述べてきた通り、この映画は普通に風刺やブラック・コメディとして紹介されますが、ただの風刺とはちょっと異なるレベルで絶望的なメッセージを提示していると思います。
そして、本作はそのメッセージに対して「家族や仲間と過ごせ」という回答を示してくるので、友達のいない私のような人々はもうどうしようもないですね。
そんな我々に残された選択肢はそう、「メタバース」。
おわり
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