作品情報
制作年 | 2022年 |
制作国 | アメリカ イギリス |
監督 | ケネス・ブラナー |
出演 | ケネス・ブラナー ガル・ガドット アーミー・ハマー |
上映時間 | 127分 |
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あらすじ
大富豪の美しき娘の新婚旅行中に、クルーズ船内で起きた連続殺人事件。容疑者は、結婚を祝うために集まった乗客全員…。豪華客船という密室で、誰が何のために殺したのか? そして、ポアロの人生を大きく変えた≪衝撃の真相≫とは? 愛と嫉妬と欲望が複雑に絡み合う、禁断のトライアングル・ミステリーの幕が開く。
引用元:20th century studios
『オリエント急行殺人事件』(2017)から始まった、ケネス・ブラナーが監督&主演を務める『名探偵ポアロ』シリーズ第二弾です。
原作はアガサ・クリスティ作品の中でも最高傑作と名高い『ナイルに死す』で、1978年のジョン・ギラーミン監督版『ナイル殺人事件』、2003年のテレビシリーズ『名探偵ポワロ』シーズン9第52話『ナイルに死す』に次ぐ三度目の実写映像化作品です。
原作小説を読んでいる方、過去の映像化作品を既に鑑賞済みの方は皆さん感じられたかと思いますが、本作は三度目の映像化ということで、過去作との差別化を図るため今回は少々驚きのアレンジが行われていました。
本作がとった原作や過去作からの改変、そのアプローチに対しては賛否両論あるかと思います。
私の場合、前々回に取り上げた『アンチャーテッド』(2022)では、原作に対して行われた設定変更については批判してきました。
しかし今回の『ナイル殺人事件』については、私が名探偵ポアロシリーズに対して特に思い入れがないことも影響しているかもしれませんが、私はこのアレンジを「アリ」だと思います。
今回はそうした改変がなぜ「アリ」なのか、そしてこの改変によって『ナイル殺人事件』という物語に生まれた魅力的な要素について述べていきたいと思います。
はじめに
以前取り上げた『ウエスト・サイド・ストーリー』(2021) では、作品を評価する上で避けて通れない話題として、アンセル・エルゴートの話題について触れました。
残念ながら本作も同様の話題に触れなければなりません。
それは本作でサイモン・ドイルを演じるアーミー・ハマーの元交際女性たちへの性的暴行疑惑です。
ここでは詳細な内容説明は省きますが、概要だけ述べておきます。
2021年1月以降、彼のinstagramアカウントから送信されたとされる、虐待やカニバリズムなど過激な性的嗜好の綴られたDMが流出。
それをきっかけに複数の女性による性的暴行被害の告発が行われたが、彼本人や彼の弁護士はその事実を否定。
告発内容は否定したものの、本人自らの申し出という形で当時進行中だったプロジェクトのほぼすべてを降板、その後彼の所属していた事務所は彼を契約解除する。
その後インターネット上では彼のinstagramや過去のテレビ出演時の発言などから、彼の性癖に関する暴露は信憑性が高そうだという見方が広まる。
2021年3月にはロサンゼルス警察が本件について捜査中であることを発表、同年12月には捜査終了し結果を地方検事局へ報告。証拠不十分で起訴は難しいだろうという結論にいたった模様。
最終的に彼が法的措置を取られることはなかったものの、彼は2021年5月から「酒、ドラッグ、セックスの問題で治療を受けるため」と称してリハビリ施設に入院。同年12月に退院している。
今後の俳優活動については不透明なまま。
といった感じでしょうか。
『ウエスト・サイド・ストーリー』同様、このスキャンダルは本作の撮影終了後に発覚したものなので、俳優の差し替えや再撮影といった対応は特に行われていません。
本作の受け取り方というのも『ウエスト・サイド・ストーリー』同様、製作時にはわからなかった事情なので、できる限り「作品に罪はない」という姿勢での鑑賞が我々には求められるでしょう。
有名ミステリー作品のリメイク
さて、本題に入ります。
ここ最近(というかもうずっとですが)過去の有名作品のリメイク、続編、スピンオフといった作品が非常に多いです。
直近では、先ほど少し触れましたがスティーブン・スピルバーグ監督が1957年の舞台を再度映画化した『ウエスト・サイド・ストーリー』がありました。
ただし、本作はその他多くのリメイク作品たちとは性質が異なります。
それは、リメイク元があまりに有名なミステリー作品だということです。
原作である『ナイルに死す』(1937)はいわゆる「whodunnit」(フーダニット:誰がやったのか)と呼ばれる「推理モノ」です。
つまり、その物語における面白さを最も大きく占める要素は「誰が犯人なのか」と「トリック」に対する驚きなわけです。
そしてその驚きは、その物語を一度知ってしまえばもはや同じ驚きは得ることができません。
一度目の映画化であれば、小説世界が映像化されるという目新しさがあるし、小説を知らない層はその映画で初めてその物語に触れるということもあるので、それほど問題にはならないと思います。
しかし、既に一度映像化されている物語を再度語りなおすリメイクをそのようなフーダニット作品で行うとなると、「映像化」という目新しさも弱まり、「犯人」や「トリック」に対する「驚き」も用意できないという点で基本的には非常に不利な戦いになります。
そんな状況で大作としてハリウッドリメイクに挑んだのが2017年の『オリエント急行殺人事件』でした。
テレビ版を含めると四度目ですが、劇場映画としては1974年のシドニー・ルメット監督版『オリエント急行殺人事件』から二度目の映画化でした。
2017年版がとったアプローチというのは、ポアロというキャラクターの再解釈はしつつ、基本は「現代映像技術」や「現代のスター俳優集結」というもので、1974年版に対してそれほど目立った改変はないやや保守的なものでした。
その結果、批評的には「まずまず」くらいの評価だったものの興行収入的には無事ヒットを成功させました。
そして今回の『ナイル殺人事件』です。
今回も劇場映画としては1978年版のリメイクとなりますが、合わせて2017年版『オリエント急行殺人事件』の続編でもあります。
つまり、全作と同じ「現代の映像技術」や「現代のスター俳優集結」というワンパターン戦法では通用しません。
そこで本作がとったアプローチは、「キャラクターの掘り下げ」や「”誰がやったか” よりも “なぜやったのか” 」を重視するという「ドラマ性の強化」でした。
特に本作のオープニングとエンディングに関しては、原作小説や過去の映像化作品にもない完全なオリジナル要素となっています。
冒頭に述べた通り、私はこの改変については「アリ」だと感じたので、ここから少しずつ具体的な内容に入っていきます。
原作や1978年版からの改変
本作は、原作である『ナイルに死す』から既にアレンジされている1978年版『ナイル殺人事件』からさらに大きな設定や作劇の改変が行われています。
キャラクターの設定変更
詳細な全要素を一つずつ指摘することはしませんが(全部は覚えてないし)、キャラクターが全体的に調整、ファインチューニングされていました。
まず映画鑑賞前からわかっていた点としては人種でしょう。
当然前作からそうでしたが、いくらなんでも真っ白なキャスティングからまともな人種構成に変更されていました。
そうしたルック的な修正だけでなく、キャラクター造形や関係性にも様々な調整が行われたことで、各人物がより人間味を持つようになり、「ドラマ性の強化」には成功していると思います。
具体的な目立った変更というと以下の内容でしょうか。
ブークの登場
前作『オリエント急行殺人事件』で登場した、トム・ベイトマン演じる「ブーク」が本作にも登場しました。
こんなトリックが大事な推理モノで原作にいないキャラクターを登場させてしまって大丈夫かと思いましたが、そこは当然というか、きっちり上手いこと調整されていました。
本作における彼のポジションは、ベースとして原作に登場する「ティム」という親子で旅行に来たキャラクターと、1978年版にも登場する「レイス大佐」というポアロの片腕として捜査に協力するキャラクターのポジションを兼ねたものでした。
ポアロ以外にも前作から続投するキャラクターを登場させたことで、本作と前作のシリーズものとしての繋がりがより感じられるようになり、それでいて本作自体のプロットを壊さずに登場させられていたので、このアレンジは良かったのではないでしょうか。
まあ「ティム」や「レイス大佐」にめちゃくちゃ思い入れがある方には不満かもしれませんね。
リネットと各キャラクターとの因縁
本作はリネット殺害の容疑者となる各人物とリネットとの因縁も改変されていました。
1978年版なんかでは、基本的には「お金」に関する因縁であり、それも一部のキャラクターについては殺人の動機となるにはちょっと弱い印象も受けます。
それが今回は「お金」だけではなく、本作のテーマになっている「愛」にまつわる因縁になっていたので、本作のアプローチである「ドラマ性の強化」という面ではかなり成功していると思います。
一部具体例を挙げると、「ウィンドルシャム」はこれまではリネットにやぶ医者呼ばわりをされて受けた風評被害で彼女を恨んでいるというキャラクター(名前はベスナー医師)でしたが、本作ではリネットの元婚約者で友人として結婚式に参加した人物となっていました。
1978年版に登場した「ファーガソン」という男は、共産主義者で単にブルジョアジーを憎んでいるという人物でしたが、このキャラクターは削除され共産主義者という設定は「マリー・ヴァン・スカイラー」に引き継がれました。
その「マリー・ヴァン・スカイラー」も過去作ではリネットの持つ真珠のネックレスが欲しいだけの人物という印象でしたが、今回はリネットのゴッドマザーという設定になっており、スカイラーと「バワーズ」との関係もあってリネットとの利害関係が強化されたものとなっていました。
サロメ・オッタボーンの役割
最後に特筆すべきは「サロメ・オッタボーン」の本作における役割でしょう。
詳しくは後述しますが、彼女とポアロとの関係というのが本作においては殺人事件の解決と共に最も重要な要素になっています。
ポアロとの関係を築くにあたって、彼女自身のキャラクターも大幅に改善されています。
職業が「恋愛小説家」から「ジャズシンガー」に変更され、人種もアフリカ系アメリカ人となっていました。
過去作のサロメは、ポアロに対して若干セクハラ気味のオバサン(一般的なセクハラおやじよりマシですが)でポアロが迷惑がる、といった大したキャラクターではなかったのですが、今回は「人種差別」という話題でリネットとの因縁が強化されていることはもちろん、本作のテーマである「愛」についてポアロに大事なことを気付かせるという、ポアロ以外のキャラクターとしては最重要の枠割を担っています。
ポアロという人物に対する掘り下げ
おそらくこの点に関してが最も賛否両論分かれる部分かと思います。
原作では描かれることのなかった、「ポアロの過去」「口髭を生やしている理由」が描かれました。
起きた出来事だけ記載しておくと、「第一次世界大戦中、爆弾によって顔にできた傷を隠すために髭を生やし始めた」というものでした。
ここに関しては実際にそういった意見が少なくないように、原作ファンにとっては嫌かもしれません。
キャラクターの掘り下げはある程度大事ですが、過剰な掘り下げは「そのキャラクターの人物像や歴史」に対するこちら側の想像の余地を潰されてしまうことになり、むしろそのキャラクターが持っていた魅力を損ねる結果にも繋がりかねません。
ファンにとっては「勝手な答え合わせ」をされた感覚になり、しかもそれが「そんな答えかよ」と言われてしまう懸念が常にあります。
ファンも製作陣もこうした懸念に苦しんでいる例として最も代表的なのが『スター・ウォーズ』シリーズでしょう。
特にハン・ソロという大人気キャラクターの若い頃が描かれた『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』などは、ファンたちがその「勝手な答え合わせ」に激怒することとなった大変な問題作として今では認識されています。
現在でも、同じく大人気キャラの過去が描かれるドラマシリーズ『オビ=ワン・ケノービ』の配信が控えており、スターウォーズガチ勢のファンたちは期待と不安との板挟みの中で眠れない日々を過ごしています。
そういうことなので、不用意にキャラクターの過去を描きすぎてしまうのは非常にリスキーです。
本作に対しても「ポアロの過去なんて描いてほしくなかった」という意見ははっきり出ています。
しかし、私個人としてはここに関しても擁護したいと思います。
なぜなら、ポアロという人物像を損ねてはいないということ、そしてなによりポアロはいっぱいいるからです。
ジェームズ・ボンド、シャーロック・ホームズ、ピーター・パーカー、ブルース・ウェインなど誰でもいいですが、エルキュール・ポアロもこれまでたくさんの俳優が演じてきており、その度提示されるポアロ像というのも様々でした。
『ナイル殺人事件』(1978)でポアロを演じたピーター・ユスティノフは外見が原作とかけ離れているとして、なんならアガサ・クリスティ本人が良く思っていないようなポアロでしたが、その後合計6回にわたってポアロを演じています。
一方、イギリスで1989年から2013年まで放送された「名探偵ポワロ」シリーズでデヴィッド・スーシェが演じていたポアロは「原作に最も近いポアロ」として評価されています。
同様の話を『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』(2019)のポッドキャストで述べていますが、「既にいろんなポアロがいるんだから “口髭がでかすぎるポアロ” とか “髭の理由が語られるポアロ” がいてもいいじゃん」って思います。
一人しかいないハン・ソロをアレンジするのとはやはり意味合いが異なり、そこはある程度自由が認められても良いのではないでしょうか。
ただしアレンジはなんでも良いわけではありません。
『アンチャーテッド』のネイトのように、キャラクター本来の人間性と真逆を行くような変更をされては困ります。
その点ケネス・ブラナー版ポアロは、性格面においては原作とほぼ一致させたうえでの追加要素なので、それほどポアロという人物像から逸脱したキャラクターではないと思われます。
作劇の一部変更
1978年版には特徴的な作劇が行われていました。
ポアロが各人物を取り調べる際、ポアロによる「このような手口であればあなたはリネットを殺せた」という説明のナレーションに合わせて、各人物がリネットを殺害する再現シーンが挿入されるというものです。
今回そのような作劇は行われておらず、基本的にはポアロによる口頭での説明のみでした。
ここに関しては、たしかに『ナイルに死す』の物語に初めて触れる方にとっては少し退屈な演出であることは否定できないでしょう。
しかしここも私は映画側の肩を持ってしまいますが、『ナイルに死す』自体はよく知られた物語なので、今回は「フーダニットにはそれほど重きを置いていない」ということと、なにより「1978年版と全く同じ演出をするわけにもいかない」ので、そこは大目に見てあげたいところです。
背景がCG問題
ここに関しては賛否両論というより「否」の方が多い印象です。
私もここはあまり好みではありませんでした。
本作はエジプトやナイル川が舞台ですが、本作の撮影は全てイギリスで行われました。
そのため基本的には全てセット撮影、背景は合成で作られています。
1978年版は実際にエジプトやナイル川で撮影しているように、せっかくこの物語を映画化するのであれば、いわゆる「観光映画」の側面も期待したいところですが、本作はそうはなりませんでした。
ロケ撮影をしなかったのは特に新型コロナウイルスによる影響ではありません。
「砂漠地帯でのロケ撮影は非常に大変でコントロールしにくいから」とのことで、確かに砂漠地帯での映画撮影は極めて困難であることは言われていますが、前作も徹底的にセット撮影だったことやケネス・ブラナーのキャリアも考えると、これは彼の作家性の一つであると言えるでしょう。
彼は元々シェイクスピア俳優であり、映画監督としてのキャリアもシェイクスピア作品の映画化から始まっていることもあって、基本的には演劇作家としての素質が強い作家です。
近年の監督作で特にヒットしている作品といえば『マイティ・ソー』(2011)や『シンデレラ』(2015)など、ファンタジックで仰々しい、少々ロマン主義的と言っても良いかもしれないような世界観が得意であり、本人も好きなのだと思います。
なので、撮影はコントロールできない自然の中で撮影する「ロケ撮影」よりも、あらゆる自然現象をコントロールできる「セット撮影」を行い、景色の色合いなんかも少し誇張した現実よりも幻想的な趣で仕上げているのです。
好みとしては実際のエジプトで撮られた景色を見たかったですが、それは1978年版がやっているので、過去作との差別化という意味において悪くはないのかもしれません。
ひとつの殺人事件が描く人々の「愛」
本作は、原作が元々持っていたテーマである「愛」を、まるで先日取り扱った『ウエスト・サイド・ストーリー』のように、は褒めすぎですが「人々が誰かを愛してしまうことこそが悲劇を生んでしまうのか」という形でより奥行きのあるテーマに深堀りできていると思います。
「愛」にも様々ある
カルナック号に乗り込んだ人々は様々な利害関係から対立していました。
それらの対立軸はどれも「愛」が関係していました。
「ウィンドルシャムとリネット」「ルイーズとリネット」「スカイラーとバワーズ」の関係、ブークとロザリーの交際にレイシズム的に反対するユーフェミアも、結局そのように対立してしまうのは息子を愛しているせいです。
しかし、これらの多くは一口で「愛」と言っても「利己的な愛」でした。
それを最も代表する例が、今回の事件の中心にいたサイモン、リネット、ジャクリーンです。
サイモンは結局ジャクリーンと愛し合うよりもまずお金が欲しく、そのためにリネットを騙してしまう。
リネットはサイモンに騙されていた面もあるが、自分を愛してくれる存在が欲しく、そのためなら親友を切り捨ててしまう。
ジャクリーンはサイモンを愛していると言っても結局一文無しのサイモンではダメで、そのために親友を嵌めて殺害する計画を立ててしまう。
そしてこの事件を解決するポアロという人間は、「愛が悲劇につながり得る」ということを最も知っている人物です。
ただし彼がそう思っている「愛」というのはそのある一面に過ぎない。
しかし彼は今やそれを忘れ、その「愛」のネガティブな側面に囚われてしまっているのです。
劇中で語られるように、ポアロは最愛の人カトリーヌの死に責任を感じています。
彼女に「どうしても会いたい」と言ってしまったから、自分が彼女を愛しすぎてしまったがゆえに、彼女を失うことになりました。
その結果ポアロは「愛」そのものを封じ込め、顔の傷、と同時に心の傷でもあるその口元を髭で覆い隠し、「探偵」という人を愛するどころか理性によって他人であれば誰でも疑ってかかるような生き方を選んでしまいました。
サロメとの出会い
今回、そんなポアロに「愛」のもう一つの側面を思い出させてくれることになるのが、「ブークとロザリーの関係」と一番は「サロメとの出会い」です。
まずは「ブークとロザリーの関係」です。
ブークは物語の終盤でリネットのネックレスを盗もうとしていたことが発覚します。
しかしそれは断固として二人の結婚を認めない母が原因であり(しかもブークは母を無視できない)、ブークとロザリー当人たちは自分たちの階級や財力などは気にしない、「ありのまま」のお互いを「受け入れて」愛し合っています。
その点で「ブークとロザリー」の間にある「愛」は「サイモン、リネット、ジャクリーンたち」の間にあった「利己的な愛」とは性質が異なります。
ポワロはユーフェミアの依頼によって彼らを観察するうち、彼らの間に相手をありのまま受け入れようとする「受け入れる愛」とその「愛」の持つポジティブな側面を見出します。
そして最も重要なのは「サロメとの出会い」です。
ポアロはブークに背中を押されてサロメに話しかけて以降、彼はサロメに惹かれています。
一方サロメもポアロには好意的でしたが、今回の事件を終え、最後の別れ際でポアロに伝えます。
「あなたの仕事は見たくなかった」と。
最後にサロメがポアロに伝えたこのメッセージは、「完全に愛を捨てた、その心の傷を覆い隠したあなたではなくてもっと素の、“ありのまま” のあなたが好きだったのにな」ということです。
サロメによるこの最後のメッセージは、映画のオープニングで傷ごと自分を愛してくれたカトリーヌ的です。
ここでポアロは、サロメによって「ありのまま」の自分を受け入れてもらうことがカトリーヌと重なり、かつて自分の中にあったはずの「愛」とその「ポジティブな側面」を思い出し、取り戻すのです。
映画のラストでポアロは、自分の中にあったはずの「愛」を封じ込めてきたその「口髭」を取り払い、顔に傷を負った「ありのまま」の自分でサロメに会いに行きます。
彼はこの物語を通して、カトリーヌやサロメに受け入れてもらったように、ついに自分のことも受け入れ、真に前を向くことができたのです。
おわりに
本作は前作以上に、推理モノとしての謎解きよりも人間同士のドラマやポアロの成長を前面に押し出した作品でした。
個人的にはこのアレンジはかなり成功しているのではないかと思います。
『ナイル殺人事件』を初めて見る人にはちょっと不親切な雰囲気も否めないけど、正直何度も映像化されてるし、謎解き以外に焦点を当てたポアロもあったっていいじゃない。
超絶武闘派なシャーロック・ホームズだっているんだし。
ケネス・ブラナーによるポアロシリーズは既に続編の計画が進行中のようです。
次回はシリーズの中でもマイナーな作品が原作になるそうなので、純粋なフーダニット推理モノのテイストが強くなるかもしれないですね。
それよりもポアロさん髭剃っちゃったけど大丈夫なんでしょうか。
あの髭がないとやっぱりポアロ感はなくなっちゃうし、でも完全復活されちゃうとそれはそれで今回の感動が薄れてしまうのですが…
さてはシリーズ三作目あたりでありがちな「前日譚」だな?
おっと私の灰色の脳細胞が…
おわり
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