『ナイトメア・アリー』(2021) ネタバレ解説 感想|”世界”を分かった気になってはならない

解説・感想
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作品情報

制作年2021年
制作国アメリカ
監督ギレルモ・デル・トロ
出演ブラッドリー・クーパー
ケイト・ブランシェット
トニ・コレット
ルーニー・マーラ
上映時間150分

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あらすじ

ショービジネスでの成功を夢見る野心溢れる青年スタンがたどり着いたのは、人間か獣か正体不明な生き物を出し物にする怪しげなカーニバルの一座。
そこで読唇術の技を身につけたスタンは、人を惹きつける才能と天性のカリスマ性を武器にトップの興行師(ショーマン)となるが、その先には想像もつかない闇が待ち受けていた。

引用元:SEARCHLIGHT PICTURES

ギレルモ・デル・トロ監督最新作です。

本作は第94回アカデミー賞にて、受賞は逃してしまいましたが作品賞、美術賞、撮影賞、衣装デザイン賞の4部門にノミネートされました。
また、マーベル映画に対して「あれは映画ではない」と言い切るあの名匠マーティン・スコセッシがロサンゼルス・タイムズ紙で本作を絶賛したことも話題になりました。

ギレルモ・デル・トロ監督といえばもちろんブレイド2』(2002)ですが、他にもパンズ・ラビリンス』(2006)や『クリムゾン・ピーク』(2015)、『シェイプ・オブ・ウォーター』(2017)など超自然的なモチーフが登場する映画というのがギレルモ・デル・トロ作品のイメージかと思います。

ところが今回、監督はそうした超自然的なモチーフが “ほぼ” 登場しない「ノワール映画」を繰り出してきました。
作品のジャンルとしてはノワール映画になるものの、ではギレルモ・デル・トロらしさがなくなってしまったかというと、そんなことは全くありませんでした。

今回はそんなギレルモ・デル・トロ監督にとっておそらく初であろうフィルム・ノワールであった本作について、本作から連想される作品や登場するモチーフと絡めながら感想を述べていきたいと思います。

この映画はめっちゃ赤字

まず触れておきたい点として、この話題については前回のアンビュランス』回でも触れましたが、本作は他の作品と同様、製作費に対して全く採算がとれていません。

製作費がおよそ6,000万ドルに対して全世界興収およそ3,800万ドルということで、製作費すら回収できていない事態になっています。完全に赤字です。
本作はシェイプ・オブ・ウォーター(2017)をプロデュースしたギレルモ・デル・トロ本人とJ.マイルズ・デイルの2名に加え、主演を務めたブラッドリー・クーパーもプロデューサーとして資金を提供しているという、気合の入った作品でした。

今回の赤字はもちろん、新型コロナウイルスのパンデミックによって人々が劇場へ足を運ぶ習慣が無くなってしまったことが影響しています。
しかし最も本作の赤字に影響しているのは、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』と同日公開されてしまったことだと言われています。

ビジネス的にどのような事情があったのかは分かりませんが、いくら本作のような良い作品でも「スパイダーマン」のようなバケモノにぶつけてしまったら、「そりゃヒットできないよ…」と言わざるを得ないでしょう。
マーベル・スタジオもサーチライト・ピクチャーズも母体は同じディズニーなのに、なぜ本作がこのような仕打ちになってしまったのでしょうか。

スパイダーマンの方に関わっているソニー・ピクチャーズの影響だったりするんでしょうか。
まあそんなことを今更考えてもしょうがないんですが、ギレルモ・デル・トロさんちょっとかわいそう…

『ナイトメア・アリー』二度目の映画化

引用元:IMDb.com

本作はウィリアム・リンゼイ・グレシャムによる1946年の小説『悪夢小路』を原作としており、映画化としてはエドマンド・グールディング監督の『悪魔の往く町』に次ぐ二度目の映画化です。

今回二度目の映画化ということになるのですが、ギレルモ・デル・トロ本人曰く一度目の映画化『悪魔の往く町』のリメイクというよりは、原作である『悪夢小路』の再映画化だとのことです。

と言っても、原作小説から抜粋しているエピソードは基本的に『悪魔の往く町』とそれほど大差はないので、実質的には『悪魔の往く町』リメイクと呼んでもあまり差支えはないように思われます。

リメイクに当たっての最も大きな修正点というと、「あまりに結末に救いがなさすぎる」ということでオリジナルのエンディングがつけ加えられていた『悪魔の往く町』に対し、今回は原作小説により忠実なエンディングに修正されています。

前半・後半の二部構成

本作全体の作りとして特徴的だったのは、映画の前半と後半で物語の舞台やジャンルも変わっているということでしょう。

映画前半の舞台は1939年のカーニバルで、ジャンルとしてはいわゆる「見世物映画」になるかと思います。
このカーニバルという世界観が大変良く出来ていて、アカデミー美術賞ノミネートも納得のめくるめく世界でした。

一方後半は打って変わって舞台はニューヨーク州バッファロー、時代も前半から二年後へ移動します。
後半では作品の雰囲気が「ノワール映画」になり、いわゆる「ファム・ファタール」ポジション(厳密にはその域を超えていますが)としてケイト・ブランシェット演じるリリス・リッターという女性が登場し、ブラッドリー・クーパー演じる主人公スタンは破滅への道を突き進みます。

前半:カーニバルを舞台にした「見世物映画」

NIGHTMARE ALLEY, from Searchlight Pictures.

予告編ではこの前半が大々的にフィーチャーされていました。
この前半に「ギレルモ・デル・トロワールド」が詰まっていたと思います。

往年の「見世物映画」を彷彿とさせる数々のショー、移動式遊園地としては明らかに豪華すぎるファン・ハウス(お化け屋敷)、「ギーク」の小屋にコレクションされている「エノック」などホルマリン漬けの胎児(ほとんどギレルモ・デル・トロの私物とのこと)と、この前半部でギレルモ・デル・トロの趣味が炸裂していました。

この前半部からは多くの映画を連想させます。
最も強く連想させるのは、既に多くの人が指摘している通りトッド・ブラウニング監督の『フリークス』(1932)やこの映画の前身である『見世物』(1927)でしょう。
「ギーク」を観客たちが上から見下ろす構図などは、『フリークス』まんまでした。
他にカーニバルが登場する映画としては『ダンボ』(1941)なんかも思い出すかもしれません。

本作が描くカーニバルは、さすがに『フリークス』レベルとはいきませんが、その特異な外見によって一般社会では生きられない “フリークス” たちが築く疑似家族感、「顔が怖い」でおなじみウィレム・デフォー演じるクレム「お前の素性なんて誰も気にしない」と言うように、主人公スタンのような「怪しい人間」たちが集まる場としての「カーニバル」が描かれていました。

美術にお金をかけすぎていて少々リッチすぎるのは否めませんが、あのように「汚く」「いかがわしい」「リアルな」カーニバルというのは、カーニバルのこういった側面を徹底的に隠した『グレイテスト・ショーマン』(2017)と極めて対照的でした。

また、この前半部では本作が作り上げる「円環構造」としての前振りが周到に行われます。
「顔が怖い」でおなじみトニ・コレット演じるマダム・ジーナデヴィッド・ストラザーン演じる夫ピートによる読心術やメンタリズムに対する忠告や、クレムによる「ギーク」に関する詳細な説明が行われます。

印象的なのはスタンがファン・ハウスの中で「ギーク」と対峙するシーンです。
スタン(とギーク)が「母体回帰」的に地獄のようなファン・ハウスに入っていき、その最奥でスタンはギークと対峙します。
このファン・ハウスを用いた、一種社会から離れた特殊な領域で「もう一人の自分と対峙する」という展開は、ジョーダン・ピール監督が『アス』(2019)で行っていた演出と同様であり、本作の重要な伏線になっています。

他にも、本作の「円環構造」を象徴するように遠景からでも印象的な「観覧車」や、スタンがルーニー・マーラ演じるモリーと一緒に乗り込むも、最終的にはモリーが先に降りてスタンが取り残されるという「メリーゴーラウンド」など、「円」を用いた非常に示唆的なモチーフが登場しています。

あとはどうでもいいっちゃどうでもいいですが、瀕死になってしまった「ギーク」を病院の前に置いていく場面では、ギレルモ・デル・トロのハリウッドデビュー作『ミミック』(1997)に登場した「JESUS SAVES」と書かれたネオンの十字架が登場していました。
まあ本当にどうでもいいんですがね…

後半:主人公が破滅していく「ノワール映画」

NIGHTMARE ALLEY, from Searchlight Pictures.

スタンがモリーと共にカーニバルを去って二年後、物語の舞台はニューヨークの上流階級へと移ります。

ここでスタンは、ケイト・ブランシェット演じるリリス・リッターという彼の運命を左右する女性に出会います。
彼女は唯一スタンが行っている「読心術」がインチキであることを見抜きます。
しかしスタンはその場で、リリスに対し卓越した「コールドリーディング」を見せつけ、リリスを黙らせてしまいます。
スタンの実力を認めた(とスタンは思っている)リリスは、戦争で亡くした息子と交信したいというピーター・マクニール演じるチャールズ・キンボールという男に彼を引き合わせます。

ここがスタンの運命の分かれ目でした。
「これはあくまでトリックであって、決して霊能力ではない」「不用意にスピリチュアリズムへ足を踏み入れるな」というマダム・ジーナ、ピート、モリーの忠告を破り、スタンは「霊能者」としてリリスのクライアントである大富豪たちに取り入っていきます。
その後の顛末は映画で描かれた通りです。

ちなみに、前半に登場した『ミミック』からのイースターエッグと同じように、後半にもギレルモ・デル・トロ作品イースターエッグが登場していました。
リリスの部屋にあった金庫に「Enola」と書かれていましたが、これは『クリムゾン・ピーク』(2015)に登場した女性の名前です。
正直「SESUS SAVES」といい「Enola」といい、イースターエッグ以上の機能は全く果たしていないモチーフが、まあまあ強調されて登場するのはどうなんだとは若干思いますが、そこはギレルモ・デル・トロの可愛さとして許してあげましょう。

話を戻します。
リリス・リッターという他とは違う特別な女性に出会い、貪欲さと傲慢さによって成功と全能感を手にした主人公が、その貪欲さと傲慢さ、全能感という己に対する過信によって最終的には破滅していくという様は、具体的に「この作品に似ている」というよりはいわゆる「ノワール映画」でよく見た展開となっていました。

これだけだとよくある映画、あまり面白くない映画のように聞こえてしまいますが、この「破滅していく主人公」と「スピリチュアリズムや魔術的なもの」との関係が本作の非常に興味深い点です。

「世界」を分かった気になった時がヤバい

NIGHTMARE ALLEY, from Searchlight Pictures.

本作はストーリー展開上、「因果応報」の話だと認識されていると思います。
その通りだと思いますが、本作に関してはもう少し踏み込んだ見方もできると思います。

それは、「人間が社会の中で少し賢くなった程度で “世界” を分かった気にはなるなよ」ということです。
ここで言う「世界」はもちろん、国内に対する海外的な「World」の意味ではありません。
人が生を営む「社会」に対する「世界」、「Universe」的な意味合いです。

この映画では、マダム・ジーナとピートがスタンにコールドリーディングを伝授する際、ピートが「世界を分かったような気にはなるなよ」といった趣旨の忠告をします。
自分が成功していくにつれ薄れてはいくものの、当初はスタンもこの忠告を守っており、自分がやっているのはあくまで「インチキ」であるため観客を本気で信じ込ませてはいけないと思っていました。

そう、リリスと出会うまでは。
リリスに一度はトリックを見破られるスタンですが、咄嗟に機転を利かせた彼は、コールドリーディングによって彼女のバッグに入った銃の存在を言い当てます。

この出来事が彼を「世界を分かった気」にさせました。
ここで「世界」に対して「全能感」を感じてしまった彼は、自身が霊能者であると人々に信じ込ませようと振る舞いだします。

この映画でスタンは、社会的な成功によって自身の中に「全能感」を見出し、その全能感ゆえに「世界を見切った」と誤解し、「世界」からの報復を受け破滅します。

「世界」はあらゆるものの全体であり、それゆえ「世界」の中にあるもので「世界」自体を規定することはできません。
我々人間が生きる「社会」は「世界」の中に人々が作り上げた一つの「システム」に過ぎず、「社会」の外には「世界」が広がっています。
人間が「社会」の中から「世界」全体そのものをすべてを理解することは不可能と言えます。

にもかかわらず、スタンは霊能力というインチキで経済的に成功しただけで、「社会」の中から「世界」を見切ったと誤解しました。
この誤解の背景にあるのが本作で示唆される「魔術」であり、この「魔術」こそが「社会」に顔を覗かせる「世界」の片鱗なのです。

本作は「ギレルモ・デル・トロ初、超常現象が描かれない映画」と紹介されがちですが、そんなことはありません。
「幽霊は実在する。」という断言から始まる『クリムゾン・ピーク』などに比べれば非常にさりげないですが、超常的な現象は描かれています。

それが「マダム・ジーナのタロット」「ピートのスタンに対する読心」「スタンのリリスに対する読心」です。

この映画は、カーニバルでのショーやピートたちの読心術に対して徹底的に「タネ明かし」を行っており、いかにも「魔術的なものは全てインチキ」というようなスタンスをとっているように見えます。
しかし、上記の三点については劇中で行われるタネ明かしでは説明がつかないと思います。
少なくとも「観察」や「洞察」のみでこれらを推測できると断言することは厳しいでしょう。

マダム・ジーナのタロットは正確にスタンの運命を予言し的中させています。
ピートの読心術も、コールドリーディングでは辿り着けないと思われるレベルまで、スタンが引いているレベルで正確にスタンの過去を見抜いています
同じくリリスのバッグの中身を言い当てたスタンも、銃が入っているところまでは推理できたとしても、その銃に施された装飾やその素材、色まで全て的中させているというのは、コールドリーディングで推理できる範疇を超えていると思われます。

これらは、ピートのコールドリーディングマニュアルが代表するような人間の作る「システム」では説明のつかない、「世界」の領域にある力です。
この力を自分自身の力と誤解してしまう、もう少し広げて言えば、自分が見たり認識している景色や体験がそのまま「世界」だと思うことは危険かもしれないということです。

終盤で起こるスタンの運命が決定的になる出来事の一つに、エズラのためモリーに彼の死んだ娘を演じさせてそれがエズラにばれるというシーンがあります。

あのエズラの屋敷と広大な庭園、その通路に佇む白い服の女性を中央に捉えたショットは、おそらくアラン・レネ監督の『去年マリエンバードで』(1964)を意識しています。

あの場面でエズラはその女性が娘の霊でないことに気付き、「死んだ娘に会える」という彼の信じていた「世界」が崩れ去ります。
スタンは自身の「インチキ」がスタンにばれることによって、「自分は騙しきれる」と思い込んでいた「世界」が崩れ去ります。

本作は「魔術」的な力を通して、自分が「こういうもの」だと思っていた「世界」が実は全くそうではない(かもしれない)という、『去年マリエンバードで』的な世界に対する視座の相対化が描けています。

「幽霊は実在する(直球)」や「半魚人(直球)」などではなく、一切超常的な現象が無いと思われる中にさりげなく、完全に人知を超えているとも言い切れない塩梅で超常的な力を忍ばせることによって、観客が自発的に「もしかして…」と思うような作りになっているという点で、本作は「ファンタジー大好きおじさん」ギレルモ・デル・トロ映画の過去作とは一線を画していると言えるのではないでしょうか。

それは「人」か「怪物」か

ギレルモ・デル・トロ映画はその多くに「モンスター」が登場します。
ただ、これまで登場してきたモンスターは基本的に外見からしてモンスターだったわけですが、本作に登場したモンスターは一味違います。
本作ではリリス・リッターこそがモンスターでした
ノワール映画的には彼女のポジションは「ファム・ファタール」と呼ばれるポジションの役どころになりますが、リリスはもはやその枠に収まっていません。
あの圧倒的な色気と恐ろしさ、完全にモンスターです。

一方、世間的にはその外見ゆえにモンスターと呼ばれがちなカーニバルの演者たちは、登場人物の中で最もと言って良いほど人間的です。
本作は、彼らが「モンスター」かどうかに外見は関係ないという、ギレルモ・デル・トロ作品やもっと言えば『フリークス』の時代から連綿と描かれ続ける普遍的なテーマがしっかり描けた良い「モンスター映画」でもありました。

「ナイトメア・アリー」とはどこなのか

NIGHTMARE ALLEY, from Searchlight Pictures.

本作のタイトル「ナイトメア・アリー」というのは、「悪夢の小路」という意味です。
しかし本作には、その肝心の「悪夢の小路」という小路は登場しません。

つまり「悪夢の小路」とはもちろん道のことを言っているだけではなく、一つはスタンが歩む人生こそが「悪夢の小路」だったということです。
そこからさらに読み取れるもう一つの「悪夢の小路」があり、それは我々の生きる「社会」そのものではないかということです。

このことは、劇中の所々で登場するラジオがニュースとして伝える「戦争」が示しています。
劇中に登場するラジオから、アメリカが「第二次世界大戦」前夜である様子が伝えられています。

なぜスタン自身の人生には大して関係がない、第二次世界大戦に関する言及がわざわざ複数回差し込まれるのかといえば、人間が人間同士で命や尊厳を奪い合う「戦争」という行為は、人間がある人間を「ギーク」に仕立て上げるという「悪夢の小路」で行われる行為と大差ないだろうということです。

同様に、スタンが歩んだような、現在我々の生きるアメリカン・ドリーム的資本主義社会も、搾取される側が搾取する側に回るチャンスが存在する一方で、搾取する側も一歩間違えば途端に搾取される側へ転落するという構造が、まさにクレムの説明した「ギーク」の作り方に通ずるものであり、したがって我々が生きる社会こそ「悪夢の小路」であるということです。

若い頃は共産主義者であり、義勇兵として参加したスペイン内戦から帰って以降は死ぬまでアルコール依存症に苦しんだ原作者ウィリアム・リンゼイ・グレシャムの生い立ちを考えれば、このメッセージも納得でしょう。

おわりに

今回のギレルモ・デル・トロ最新作は、彼の過去作で言えば『パンズ・ラビリンス』(2006)以来の非常に大人な作品だったと思います。

特攻野郎Aチーム THE MOVIE』(2010)でおなじみブラッドリー・クーパーも、あのラストシーンは本当に見事な演技だったと思います。

こんな映画が『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』と同日公開されたせいで大コケしてしまっているのは残念でなりません。

ギレルモ・デル・トロさんはこれに挫けることなく、たまには『ブレイド2』みたいな映画も作ってくれると良いと思います。

おわり


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