作品情報
制作年 | 2022年 |
制作国 | アメリカ |
監督 | スティーブン・スピルバーグ |
出演 | ミシェル・ウィリアムズ ポール・ダノ セス・ローゲン ガブリエル・ラベル |
上映時間 | 151分 |
あらすじ
初めて映画館を訪れて以来、映画に夢中になったサミー・フェイブルマン少年は、8ミリカメラを手に家族の休暇や旅行の記録係となり、妹や友人たちが出演する作品を制作する。そんなサミーを芸術家の母は応援するが、科学者の父は不真面目な趣味だと考えていた。
引用元:公式サイト
そんな中、一家は西部へと引っ越し、そこでの様々な出来事がサミーの未来を変えていく――。
スティーブン・スピルバーグ監督最新作です。
昨年の傑作『ウエスト・サイド・ストーリー』(2021)から1年しか経っていないのにもう新作です。しかも大傑作です。
スピルバーグは昔から早撮りで有名で、『ジュラシック・パーク』(1993)と『シンドラーのリスト』(1993)が同年に公開されたりと、はっきり言って異常な仕事ぶりですが、76歳のスピルバーグは全く衰えていません。衰える素振りすら見せません。
スピルバーグの人生を語った書籍や映画は複数存在しますが、スピルバーグ本人が自らの人生をここまで詳細に語るのは今回が初めてなのではないでしょうか。
映画好きなら当然、映画好きでない人でも名前は聞いたことのある、もはや映画神スピルバーグの自伝的映画となれば劇場で観ない選択肢はあり得ません。
先に私の結論から述べておくと、近年増えてきている映画作家の「自伝映画」「映画についての映画」の中では本作が頂点になったと思います。
これ以上ない完璧な布陣
本作はスピルバーグ映画においてこれ以上ないほど完璧な布陣で作られた映画ではないでしょうか。
まず脚本は、『ミュンヘン』(2005)『リンカーン』(2012)『ウエスト・サイド・ストーリー』(2021)というスピルバーグ作品において間違いない仕事をしているトニー・クシュナー。(ちなみに今回スピルバーグ本人も脚本クレジットされているが、なんと『A.I.』(2001)以来である)
撮影はもちろんヤヌス・カミンスキーで、昨年の『ウエスト・サイド・ストーリー』でも素晴らしい撮影をしていました。
そして音楽もやっぱりジョン・ウィリアムズ。彼の業績は紹介するまでもないでしょう。
この時点でもはや傑作は約束されたようなものですが、今回は主要キャストも間違いありません。
近年は『ウエスト・サイド・ストーリー』ではレイチェル・ゼグラーという新スターを発掘したり、『レディ・プレイヤー1』(2018)ではキャストのギャラで露骨に製作費を抑えにいったり(タイ・シェリダンすまん)という印象でしたが、今回はキャスティングも素晴らしいでしょう。
特に主人公の両親を演じたミシェル・ウィリアムズとポール・ダノです。彼女らはもはや演技のバケモンなので、今回も圧倒的な演技を見せてくれていたと思います。
これだけの条件が揃っていれば、もう本編を観なくても分かります。傑作です。
しかし実際に観てみないわけにはいきません。そこで実際観てみるとどうでしょう。
傑作でした(茶番)
出来事はほぼ実話
もう少しだけ外側に関する話をしておくと、すでに「スピルバーグの自伝的作品」と宣伝されている通り、基本的に本作の中で起きていることはすべてスピルバーグ自身の身に起きた実際の出来事です。
スピルバーグの感情面についてはともかく、一番手軽にスピルバーグの伝記的な情報が知りたければ『Who Is Spielberg?』というペーパーバッグがオススメです。
洋書になりますが、子供向けの書籍なので非常に簡単な英文です。kindle版で数百円で購入できるのですぐに読めると思います。
こうした参考文献でスピルバーグの子供時代についてある程度知っておくと、ストーリーラインではなく本作のテーマや、スピルバーグの超絶技巧をより深く味わうことができると思います。
映画の持つ力
本作からはいろいろなテーマを読み取ることができると思いますが、私が最も感動した点は、「映画の持つ力」というものをスピルバーグがこれでもかと丁寧に語ってくれた点です。
本作は、スピルバーグが人生を歩んでいく中で、映画の持つ力について学んだこと、思い知ったことが描かれます。
そして注目すべきはその描かれ方でしょう。本作はそうした「映画の持つ力」に関して、まさに「映画の持つ力」をもってスピルバーグが我々にぶつけてくるのです。
映画的な表現のみで映画について語り切る。こんなことができてしまうのは、正直今やスピルバーグただ一人なのではないでしょうか。
見ること
映画は主人公サミーが生まれて初めての映画を観に行くシーンから始まります。鑑賞する映画はセシル・B・デミル監督の『地上最大のショウ』(1952)。サミー少年はこの映画で描かれた、まるで本当に見える車と列車との衝突というスペクタクルシーンに衝撃を受けます。
それからというもの、サミーは車と列車の衝突を何度も再現し、繰り返し見たがります。そこで母ミッツィはサミーにカメラを渡し、「映像で残せば何度でも衝突を見られる」と教えます。
サミーはこの生まれて初めての映像体験を通して、映像に残せば何度でもその出来事を再現できること、映像を通して見ることで、どんな出来事もまるで本物のように見えるということを学びます。
それから数年後、サミーは自分の見たい世界を具現化するため自主映画製作に励んでいます。
本作で描かれたのはボーイスカウトの仲間たちと製作した戦争映画。これももちろんスピルバーグの経験に基づいており、スピルバーグは当時『Escape to Nowhere』という自主映画を製作しています。
この第一部では、映画というアートについて、「見たい世界が見られる」「見たい世界を見るために行う工夫の楽しさ」など、最も根源的な、ともすれば無邪気とも言える楽しい部分について語っています。
スピルバーグはもちろんそれをサミーにセリフで語らせるのではなく、映像で語ります。
具体的には列車と車のおもちゃを使って衝突を撮影した映像、それを母とクローゼットで観るシーン。そして戦争映画のメイキング風景です。
我々はこれらの映像を観るだけで、映画作りの楽しさ、多幸感を存分に受け取ることができます。
見えてしまうこと
サミーは家族とベニーおじさんと共にキャンプへ出かけます。既にカメラマンとしての腕が確かなサミーは、キャンプ旅行の映像記録を任されます。サミーは楽しいキャンプのひと時を面白おかしく撮影し、ミッツィの美しいダンスも見事に記録してみせます。
しかし、家に帰りフィルムの編集に移ると、衝撃の事実を目にします。
映像の端々に映りこんでいたベニーとミッツィの親し気な様子。どうやらベニーとミッツィは浮気をしてたようなのです。
サミーは家族全員に見せる映像にはそれらのシーンは全てカットしていましたが、カットしていた映像は別で保管しており、後日ミッツィに見せることになります。
このサミーがとっていた二人の映像をミッツィが確認するシーンも見事です。
構図としては第一部で母子二人で衝突シーンを鑑賞する場面と呼応しており、今回はミッツィ一人で映像を確認しています。また、ベニーとミッツィの様子については、我々観客はサミーと一緒に一度見ているので、ここで再度映像を流すことはしません。映像を観ているミッツィの表情のみで語り切ります。
ここはスピルバーグ作品では定番となっている、いわゆる「Spielberg Face」演出を使用しています。
「Spielberg Face」とは、本来見せるべき対象物をスクリーンに映す前に、その対象物を観ている人間の表情を映すことでこちらの想像力を刺激する演出のことです。代表的なのは『ジュラシック・パーク』において、我々にブラキオサウルスの全身を見せる前に、それを見ているサム・ニールとローラ・ダーンの表情を映したあのシーンでしょう。
今回は、その重要な顔演技をミシェル・ウィリアムズが迫真の演技で見せてくれていることもあって、破壊力抜群の名シーンになっていたと思います。
この第二部では、見たいものを見たいように撮っていたサミーが、「時に映像は見たくない事実までも残酷に映してしまう」という、映像のもつ恐ろしい側面に触れる様子が描かれています。
スピルバーグはもちろんここでもセリフでテーマを言ってしまうというような安い演出は一切せず、サミーの撮影した映像と、ミッツィの演技で語り切るのです。
完璧かよスピルバーグ。
見せること
やがてサミーたちは、父バートがIBMに就職した(実際にスピルバーグの父もそう)都合でカリフォルニア州サラトガへ引っ越します。
引っ越した先での高校生活は悲惨なもので、小柄で体も弱く、学校内でほぼ唯一のユダヤ人ということで、ローガンとチャドという学校のジョックスたちからひどくいじめを受けます。
引っ越しを機に映画撮影から距離を置き、勉学など他のことに打ち込もうと考えていたサミーでしたが、金持ちクリスチャンのガールフレンド、モニカの提案によって、卒業生のおサボりデーの一日を記録する仕事を引き受けます。
ビーチでの撮影では、サミーがこれまで培ってきた映像技術、編集技術を駆使して非常に楽しい映像作品になっているのですが、その映像の中では、ローガンが完璧なヒーローに見えるがそのことで逆説的に全くの空虚な存在に見え、チャドは愚か者のまるでピエロのような人物として描かれていました。
愚か者らしく顔を真っ赤にして起こっていたチャドはともかくとして、こんな映像作品という形で、しかも自分が全く抵抗できないような状況で、かつ言い訳もできないほど完璧に復讐されるとは予想だにしていなかったローガンは、思わずサミーの前で涙を流します。
この第三部では、「映像は、作り手の意図次第で物事をいかようにも見せることが可能であり、場合によってはでっち上げることすら可能である」という映像が持つ恐るべき力を我々に示します。
そして何よりすごい、というより恐るべきなのは、そうしたテーマをやはりサミーが撮影した映像によって、十分な説得力を持って語り切れているという点です。
我々は卒業生と共にサミーの作品を観る中で、ローガンの描かれ方に対して、劇中のローガンと全く同じ感想を抱くことができるのです。
時系列が前後しますが、サミーがボーイスカウト時代に仲間たちと劇場で映画鑑賞をするシーンがありました。
この時サミーが観ていた作品は『リバティ・バランスを射った男』(1962)です。
この映画は監督がジョン・フォード(もちろん本作のエンディングにも繋がっている)、主演ジェームズ・スチュワートとジョン・ウェインによる西部劇です。
この映画のあらすじについては割愛しますが、どんな話かというと、ジェームズ・スチュワート演じる政治家の男が、実はそれは自分ではないにもかかわらず、物語の悪役であるジョン・ウェイン演じるリバティ・バランスを撃った男という形で、伝説として祭り上げられてしまうという話なのです。
つまり、『リバティ・バランスを射った男』のテーマは本作終盤のこのテーマと呼応しており、サミーはジョン・フォードが監督したこの作品から学んだことで、ローガンたちに復讐を果たすことができたのです。
本作においてサミーが鑑賞する作品としてこの映画のチョイスはまさに完璧です。この映画の監督がジョン・フォードということが、本作のエンディングにも対応します。
見事すぎるエンディング
本作はスピルバーグの伝記的作品ということで、スピルバーグの人生においてどの辺りで終わるのかということも注目ポイントでしたが、サミーがハリウッドに入る瞬間という非常にキリのいいタイミングで終わってくれました。(個人的にはその後ジョージ・ルーカスと出会うところも見てみたいが、続編なんてあり得ないでしょうね)
本作のエンディングはジョン・フォード監督との出会いで締め括られます。
まず指摘しておかなければならないのはジョン・フォード役でしょう。なんとあのデヴィッド・リンチ!
といってもデヴィッド・リンチのキャスティングは、映画公開前から大ニュースになっていたので皆さん知ってはいたと思いますが、ここまでこの映画に見入っていたため、デヴィッド・リンチ登場で改めてびっくりしてしまいました。
デヴィッド・リンチ自身は当初出演オファーを断っていたそうですが、ローラ・ダーンによる粘り強い説得によって出演が実現したそうです。
ローラ・ダーン、偉すぎます。ありがとう。
このシーンは特にスピルバーグ自身の記憶を忠実に再現しているようです。
アメリカ合衆国カリフォルニア州サンブルーノに本社を置くオンライン動画共有プラットフォームにジョン・ファヴローか誰かと対談している映像が残っていたかと思いますが、そこで語っているジョン・フォード監督と初対面した時の思い出が、本作で描かれているジョン・フォード対面シーンとピッタリ一致しています。
本作のラストショットは最高すぎるので、一応具体的には述べないでおきますが、ここまであれだけスピルバーグの映画技術が詰まったような本気の映画になっておきながら、あのユーモアで終わって見せるというこの余裕。
もう参りましたと言うほかないでしょう。
完璧かよスピルバーグ。
芸術家の業
ここまで私が述べてきた感想からも分かっていただけるかと思いますが、本作はスピルバーグが自らの成功体験を思い返し、自らの映画愛をぶちまけているような作品ではありません。
やはり触れておかなければならないのは、ボリスおじさんとのやり取りでしょう。
ボリスおじさんとのシークエンスでは、「アートは麻薬と同じで、芸術家はジャンキーなのである」「お前はきっと家族よりもアートを優先することになる」という趣旨の発言が行われます。この時はあまり真剣に受け取っていないサミーでしたが、その後のシーンではまさにボリスおじさんの予想したとおりになってしまいます。それは両親が子供たちに離婚を発表するシーンです。
衝撃の発表に妹たちが悲しんでいる中、サミーは思わずそんな彼女たちをどう撮影しようか想像してしまいます。ここで、サミーの私生活が芸術に浸食され、サミーもそれに抗えないという、芸術家の業のようなものが描かれます。
おサボりデー撮影に関しても近いものがあるでしょう。
面と向かってはローガンやチャドに一切強気に出られないサミーですが、カメラを手にしてしまったが最後、映像によってチャドに、あるいはローガンに図らずも復讐を行ってしまいます。
あの映像を観たローガンたち、特にチャドがどう感じ、きっと痛い目にあうであろうことはサミーには想像できたはずですが、それでもやってしまうのです。できてしまうからしょうがないのです。
サミーは私生活よりもアートを優先することになるであろう描かれ方をしていますが、事実、スピルバーグは自身も離婚を経験しており、「芸術とは麻薬のようなものであり、我々はジャンキーなのだ」という意識には自覚的なのでしょう。
スピルバーグの自己分析
ボリスおじさんの発言やその後のサミーの描かれ方だけに限らず、要所要所でスピルバーグ自身による自己分析が垣間見え、自身の伝記映画という側面からも完成度が高いことが分かります。
特に印象的なのは、上映会におけるサミーの様子です。
作中で何度か自身の作品を観客に披露するシーンがありますが、どの上映会においても、サミーは何より観客のリアクションを気にかけています。
これはまさにスピルバーグ自身の映画との向き合い方です。スピルバーグは興行収入至上主義であることで知られています。批評家のレビューは一切読まず、興行収入でヒットすれば成功、ヒットしなければ失敗であると考えます。
本作におけるサミーを見れば、スピルバーグのこうした考え方はハリウッドデビュー前からすでに持っていた価値観であったことが分かります。
また、作品を作るきっかけについても興味深いものがあります。
映画序盤こそ自身の撮りたい作品を撮っているものの、キャンプの記録やおサボりデー撮影など、人から頼まれて着手する仕事が多かったことが分かります。
スピルバーグのキャリアを振り返ると、彼自身人が持ってきた企画で監督をしている作品が多々あります。
初仕事であるテレビ作品(『Night Gallery』や『刑事コロンボ』のエピソード監督)は基本的に雇われ仕事であるし、『インディ・ジョーンズ』シリーズは元々ジョージ・ルーカスに監督を頼まれて始めた企画です。
この「人から頼まれた仕事でもガンガンやっちゃう、そして上手い」というようなスピルバーグの特性も、デビュー前からあったものであることが分かります。
おわりに
こうして考えると、”自伝的”作品と厳密な自伝ではないことが強調されており、実際本作では描かれなかったスピルバーグの経験も多くありますが(特にハリウッドデビューを手にする経緯は事実と大きく異なる)、本質的な部分に関してはやはりスピルバーグ本人にかなり忠実であり、自伝映画と言ってしまって差し支えないかと思います。
きっかけは『ROMA/ローマ』(2018)辺りだと思いますが、昨今映画監督が自身の生い立ちを題材にした映画が増えています。一昨年はケネス・ブラナーが『ベルファスト』(2021)なんかを作ったりして、こちらも素晴らしい作品でした。
ただ、これまでの伝記的映画は基本的にアート映画寄りになっていたと思います。アート映画風味を否定するわけでは決してありませんが、スピルバーグはそれらの監督とは違います。ちゃんと自身の伝記映画になっていながらエンタメ作品に振り切っており、エンタメ作品として間違いなく一級品になっているのです。かと言って決して能天気な映画賛歌ではない、「映画の持つ力」そしてその怖さを主題にしている点でやはりただのエンタメ作品にもとどまっていません。完璧か。
このアプローチと、このアプローチをしっかり成功させていることこそが、やはりスティーブン・スピルバーグという、ハリウッド映画、ブロックバスター映画の王らしい風格というものではないでしょうか。
おわり
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