作品情報
制作年 | 2022年 |
制作国 | アメリカ |
監督 | マット・リーブス |
出演 | ロバート・パティンソン ゾーイ・クラヴィッツ ポール・ダノ |
上映時間 | 176分 |
ポッドキャストでも配信中
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あらすじ
優しくもミステリアスな青年ブルース。
引用元:公式サイト
両親殺害の復讐を誓い、悪と敵対する存在 “バットマン” になって2年が過ぎた。
ある日、権力者を標的とした連続殺人事件が発生。
犯人を名乗るリドラーは、犯行の際に必ず “なぞなぞ” を残していく。
警察や世界一の名探偵でもあるブルースを挑発する史上最狂の知能犯リドラーが残した最後のメッセージは―
「次の犠牲者はバットマン」。
社会や人間が隠してきた嘘を暴き、世界を恐怖に陥れるリドラーを前に、ブルースの良心は狂気に変貌していく。
リドラーが犯行を繰り返す目的とはいったい―?
でました。「バットマン」の映画化です。
アメコミキャラクターの中では最も数多く実写化されているキャラクターで、ドラマでの登場やブルース・ウェインとしてのみの登場も含めるともはや何回目かよくわかりませんが、第二次世界大戦中に作られた戦意高揚連続活劇「BATMAN」(1943)から数えると10回以上は実写で数々の作品に登場してきたキャラクターではないでしょうか。
そんな数えきれないほど作品が作られてきたキャラクターであり、世界で一番有名なヒーローであるバットマンをなんとまたしても映画化してしまいました。
本作を監督したのはマット・リーブス監督で、「クローバーフィールド/HAKAISYA」(2008)や「猿の惑星」の新シリーズで有名な監督ですね。
特に「猿の惑星:新世紀(ライジング)」(2014)と「猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー)」(2017)での「シリアスな方向でのリブート」的な手腕が買われての本作といったイメージでしょうか。
主役のブルース・ウェイン/バットマンを演じたのはロバート・パティンソンでした。
彼は「ハリー・ポッター」シリーズのセドリック役で有名になり、その後「トワイライト」シリーズで一気に「大人気イケメンスター俳優」としてブレイクしました。
しかし彼自身はその「大人気イケメンスター俳優」としてのキャリアには思うところがあったのか、「トワイライト」シリーズ以降はインディペンデント系やアート系の映画に出演するようになりました。
そんな「演技派俳優」への修業を経て、ハリウッド超大作にカムバックしたのが「TENET テネット」(2020)と本作でした。
幾度となく実写映画化されてきた「バットマン」に対して今回はどのようなアプローチで攻めたのかを振り返りながら、「バットマン」映画化としては避けては通れない「ダークナイト」(2008)にも言及しつつ本作の感想を述べていきたいと思います。
バットマン原作への原点回帰要素
「バットマン」はこれまで何度も実写化されてきましたが、映画史的に重要になってくるのは1989年のティム・バートン監督版「バットマン」の登場からでしょう。
この作品が登場したことで、「アメコミ映画」は大人の鑑賞にも耐える作品となり得るということや、「アクション大作」としてちゃんと作ればちゃんとヒットするということが広く認知され、最終的には現在のマーベルのように「アメコミ映画」がブロックバスターの頂点を極めることになります。
「バットマン リターンズ」(1992)など多少例外的な作品もありますが、「バットマン」の映画化は基本的に「アクション映画」の大作として作られてきました。
そこで本作は過去作との差別化を図るため「アクション映画の大作」という方向性ではなく、バットマンというキャラクターの設定を部分的に原作の方向へ原点回帰させました。
それが既に散々指摘されている通り、「バットマンは世界一の名探偵」という設定です。
本作はいわゆる「アクション映画」ではなく、「ミステリ映画」や「犯罪映画」の側面が非常に強く打ち出されていました。
この「バットマンは探偵でもある」という設定をここまで全面に出したのは実写作品としては初だったのではないでしょうか。
また、本作は「ブルースがバットマンとしての活動を始めて2年目」という時代設定も特徴的でした。
これは監督も公言しているように「バットマン:イヤーワン」というコミックに強く影響を受けています。
活動2年目のバットマンという時代設定にしたことで、「バットマンというキャラクターの誕生譚」は省略しつつ「バットマンというヒーローの誕生譚」を描くことに成功しました。
「スパイダーマン:ホームカミング」(2017)がベン叔父さんのくだりを省略したように、「バットマン誕生の経緯」もあまりに有名なので、この時代設定にすることでその経緯を省略したのはとても正しかったと思います。
物語はより「暗く」、「深刻」に
一方作劇はというと、こちらも原作への原点回帰的に「よりリアルでシリアス」な物語となっていました。
それは原作コミックで言うところの「バットマン:ダークナイト・リターンズ」以降のバットマンのようなアプローチであり、アメコミ映画の文脈で言えばクリストファー・ノーランの「バットマン ビギンズ」(2005)から始まるバットマン・トリロジー、ザック・スナイダーの「300」(2007)や「ウォッチメン」(2009)などが始めた「ダーク」で「シリアス」なアメコミ世界です。
本作はそんな世界観をさらに突き詰めた形になっています。
本作は「スーパーヒーロー映画」ではなく完全に「犯罪映画」「ミステリ映画」として作られており、本作を見て連想するのはアメコミ映画ではありません。
全体的には「セブン」(1995)や「チャイナタウン」(1974)、メインヴィランであるリドラーからは「ゾディアック」(2006)や「ソウ」(2004)シリーズを連想します。
連想する映画を挙げていくだけでも本作がいかに暗いかが改めて実感できます。
ゴッサムシティについても、過去作で描かれた「雪の降るファンタジックな町(ティム・バートン)」、「高層ビルと巨大な彫刻が林立する都市(ジョエル・シューマカー)」、「ただのシカゴ(クリストファー・ノーラン)」などとは大きく変わった街並みになりました。
ニューヨークの中に一部パリやロンドンといった都市が混ざり合ったような街並みで、1970~1980年代頃のニューヨークを超えるくらいの汚さ、退廃ぶりがバッチリ表現されており、ゴッサムシティの描写に関しては過去一で素晴らしかったと思います。
犯罪映画としての本作
さて、本作における上記の特徴を踏まえて内容の感想に入っていこうと思います。
本作はもはや「スーパーヒーロー映画」というよりは「犯罪映画」でした。
なのでこちらも「スーパーヒーロー映画」というよりも「犯罪映画」として見ようとしてしまいます。
どういうことかというと、「マーベル映画くらいのテンションならツッコまない部分も思わずツッコんじゃう」ということです。
つまり、本作は「犯罪映画としての娯楽性」は正直低いということです。
「バットマン」というキャラクターを抜きにして「犯罪映画」として本作を見ると、正直そんなに大した話ではありません。
ストーリーに大した捻りはなくてむしろツッコミどころが多いし、リドラーの犯罪や暗号も「ゾディアック」ほど不気味な気持ち悪さもないし、ノワール映画テイストとはいえいくら何でもテンポが悪いです。
一応ストーリー的なツッコミどころをいくつか挙げておきます。
- 全体的なテンポが悪い割に暗号を解くスピードは「バットマン フォーエヴァー」級に早い
- リドラーにとってバットマンがパートナーなのであれば、葬式ではわざわざバットマンが爆弾を食らってしまうような段取りにはすべきでなかったのではないか(そしてあの距離で爆弾食らって顔が無傷のバットマン)
- ペンギンの取引現場にどうやってあんなにうるさいバットモービルを持ってきたのか
- ペンギンとのカーチェイスでだいぶ人殺してない?
このあたりでしょうか。
この程度のツッコミどころ、あるいはこれら以上の破綻は過去のアメコミ映画やバットマン映画にも大抵ありますが、こちらもアメコミ映画を見るテンションで臨んでいるのであまり気にならない場合が多いです。
しかし本作は、これまでにないシリアスさの犯罪映画として見せてくるうえ、やけに謎解きやミステリーの側面をアピールしてくるため、こちらもある程度構えてしまいます。
そうして構えながら見てしまうには、つまらないとは言いませんがあまりスリリングだったとは言えず、それほど作り込まれたミステリーとは思えません。
「主人公が事件を追いかけるうち、自分の過去や罪と向き合うことになる」のはベタ中のベタだし、その主人公がバットマンともなればそんな展開になるのはあまりにも自明ですからね。
新たなバットマン像
ストーリー展開に関する苦言は若干言い過ぎな気もするのでそんなことより、バットマンの映画化で最も注目すべき点はもちろん「バットマンというキャラクターの人物像」です。
先に少し余談を挟みますが、本作の宣伝に関してまたしても日本のセンスのなさが露呈しています。
「TwitterかInstagramで “#バットマンエモい” というタグをつけて感想を投稿する」というものです。
確かに英語圏では今回のバットマンのことを「Emo」という言葉で表現する場合が多いですが、「Emo」と「エモい」は意味が全く違います。
こんなダサいキャンペーンは恥ずかしいので是非やめていただけると助かります。
今回のバットマン像についての話に戻ると、まず外見に関しては今までで一番カッコよかったのではないでしょうか。
使用するスーツやガジェットは過去作(特にノーラン版)に比べてより現実的な技術やサイズ感になっていました。
その中でも特にマスクが良かったと思います。
ティム・バートン版やジョエル・シューマカー版はマスクが首から肩にかけて一体化していて、首から上が満足に動かせない感じが今見るとちょっとオモシロになってしまっているし、最新のベン・アフレック版は割れた顎は良かったもののとにかくあまりにもガチムチすぎたし、クリスチャン・ベイル版は最もスタイリッシュなのは良いですが、マスクが顎のラインを完全に覆い隠していて口元だけ開いている形状なのがあまりカッコよくありませんでした。
その点今回のコスチュームは、ロバート・パティンソンの顎のラインをキッチリ出すデザインで、本来のバットマンの特徴である「四角い顎」をよく体現できていたと思います。
加えてあのレザーっぽい質感で少し傷もついていて、縫い目があるという作りも現実味のあるデザインで、世界観と上手くマッチしていました。
まだ人間として未熟なブルース
本作のバットマンは、活動を始めて2年目というバリバリ新人のバットマンでした。
そのため、バットマンとして活動するブルースはまだまだ若い、というか「青い」青年でした。
ブルースとバットマンとのアイデンティティをまともに分けられていない、というよりもうブルースとしてはろくに活動できていない様子はもはや「スパイダーマン」的でした。
今回のブルースはアルフレッドとの関係もあまり良くなく、「あんたは俺の父親じゃない」なんて言い出すのは完全に反抗期の男の子です。
そして肝心のバットマンとしての活動はというと、「I’m vengeance.」なんて言いながらただただ犯罪者たちの制圧に拘っていました。
そんな未熟なブルースが本作を通して人間として成長し、スーパーパワーや武力によってではなく、本人の内から湧き上がる感情によって真にヒーローとして目覚める様は、これもやはり「スパイダーマン」をはじめとする21世紀のヒーロー映画らしい、言い換えれば「マーベル的」な展開で、非常にカタルシスを得られる結末だったと思います。
バットマン映画が抱える課題
ただ、本作のバットマンにも不満点はあります。
少々自分の心情を口で語りすぎです。
外ではめちゃくちゃ口数が少ないわりに自分の心情の話題になると急にめっちゃ喋ります。
「過去に囚われていた」とかわざわざ自分で言わなくていいですよ。見てれば分かるんで。
それはまあ別にいいんですが、次の二点が近年のバットマン映画が抱える大きな課題だと思います。
それは「コウモリ男というコスチューム」と「映画のレーティング」です。
コウモリ男というコスチューム問題
コスチュームに関して、スーツのデザイン単体で見れば先ほど述べたようにとってもカッコいいんです。
しかしいざ映画の中に入れてみた時、映画全体のトーンがシリアスになればなるほどそれに比例して「コウモリ男」という格好のバカバカしさがどんどん気になってきます。
「犯罪者たちに恐怖を抱かせるため」的な理由をつけていますが、「いやコウモリよりもっと他にあっただろ」という問題です。
世界観が現実的になるにつれ、この珍妙な設定がますます引っかかるようになります。
元々ティム・バートンが「バットマン」を制作する際、「大富豪が夜な夜な自警活動するためにコウモリの格好をするなんてそんな奴は病んでるに決まっている」ということで、ブルースは病んだ人間として作りあげられ、映画全体のトーンも当時としては画期的なダークさで描かれていました。
と言ってもまだまだ空想的な世界観だったため、こちらも「そういうもの」として受け入れやすい状態でした。
それがクリストファー・ノーラン版では、世界観がさらに現実的でシリアスでになった分、そんなリアルな世界観の中で一人の大富豪がコウモリの格好をしている理由付けにはいよいよある程度強力な説得力が必要になってきました。
正直当時の時点であまり説得力のある理由付けがあったとは思えませんでしたが、今になって思い返してみると、登場するヴィランたちもバットマンと同じくらいのコスプレ感と荒唐無稽さであり、まだある程度「そういうもの」として受け入れられたのだと思います。(少なくとも私は)
そして本作です。
ノーラン版よりもさらにリアルさ、シリアスさが増してもはや「アメコミヒーロー映画」というジャンルとは呼べないほどの領域にまで入ってしまいました。
その結果、ノーラン版の時点でギリ耐えていたと思われる「コウモリ男」というルックスのバカバカしさがついに世界観とのギャップに耐えきれていない印象です。
キャットウーマンをはじめ、ヴィランであるリドラーやペンギンもだいぶ現実にあり得そうな出で立ちになっているため、胸にでっかい「コウモリマーク」を携えて「マント」もなびかせながら「角が生えたマスク」なんか被っちゃうという、そんなふざけた格好で暴れまわっているのはいよいよ街中でブルース一人だけです。
おそらくこの「圧倒的に珍奇な格好をしている人物はバットマン一人だけ」という状況が今回バットマンとして活動するブルースに「イタさ」を感じてしまう原因のような気がします。
ブルースはティム・バートンの言った通り「病んでいる」し、特に本作のブルースにおいてはそのダサさがかえって「Emo」さに繋がっているのでアリっちゃアリなんですが、なんだか「コウモリというモチーフ」や「バットマンという男」に畏怖するのではなくて、どちらかというと「一人でマントなんかなびかせて大真面目に闊歩できるそのメンタル」に畏怖しますよね。
ただこれに関しては慣れもあるし、今後「ジョーカー」や「ロビン(or ナイトウィング)」といった他のコスチュームキャラクターが増えていけばこのブルースの「イタさ」は解消されるかなと思います。
映画のレーティング問題
コスチュームに関する問題はまだどうでもよくて、こちらの方が大きな課題だと思います。
これはクリストファー・ノーラン版にも言えることなのですが、やはり映画が「R指定」でないのはマイナス点です。
「ジョーカー」(2019)ではしっかりR指定で作れたのに、バットマンの映画となると結局「PG-13」です。
バットマンは「不殺」がモットーとはいえ、バットマンほどの人間がマウントポジションをとって全力で何度も拳を振り下ろせば、相手の顔面はもっとぐちゃぐちゃになっているはずです。
にもかかわらず映画冒頭では相手の状態を「見せない」、映画終盤では顔面を映すものの「ひどめに殴られたボクサー」程度のものです。
端的に言ってこれではショボいし、足りません。
最低でも「ヒストリー・オブ・バイオレンス」(2005)くらいの顔面潰しや流血があって然るべきです。
バットマンとリドラーをコインの裏表として描き、我々の中にある「正義」や「善」という概念を真に揺るがすのであれば、復讐に囚われたバットマンが「ゴッサムシティを犯罪から守るため」という大義名分のもと振りかざす「暴力」の惨さをもっとありのまま見せ、バットマンとリドラーとの違いがほとんど感じられなくなる必要があると思います。
このバットマンの「”正義” が持つ暴力性」をありのまま見せず、観客の想像に任せたりマイルドに描いてしまうのははっきり言って「逃げ」です。
リドラーという「猟奇殺人犯」とバットマンという「ヒーロー」両者を通して、そもそもいかに「”人間” と “暴力” は不可分な関係」であるか、「”正義” が持つ暴力性」という事実をしっかり見せつけ、それを踏まえた上で「それでも我々人間は “善” を成し得るのか」「ヒロイズムとは何か」という命題にブルースが挑み、彼なりの結論に至るべきです。
この「暴力」に対する表現から逃げ続ける限り、結局バットマンの実写映画はマーベル映画をはじめとする「大衆娯楽作品」の範疇から出ることはできず、いくら画面を暗くしてバットマンが暗闇からゆっくり出てこようが、いくら前髪を濡らしてニルヴァーナを流そうが、真の意味で「シリアスな」「ダークな」ヒーロー映画にはなり得ないと思います。
「子供を含めたなるべく大勢に見てもらい興行収入を稼ぐ」という魂胆で間接表現に頼るのは、まさにリドラーやジョーカーの思想に反するような「嘘」ではないでしょうか。
リドラー VS バットマン
「ダークナイト」での故ヒース・レジャー演じるジョーカー登場以降、「ヴィラン」に対するハードルは必要以上に上がってしまいました。
「ダークナイト」以降の我々は、ヒース・レジャー版ジョーカーの存在を意識せずにバットマンのヴィランを鑑賞することはもはや不可能です。
本作の作り手もジョーカーへの意識は相当持っていたのでしょう。
今回登場する「リドラー」は、いかにジョーカーと差別化しつつもなるべく彼に見劣りしないよう丁寧に作り上げられたキャラクターでした。
「バットマン フォーエヴァー」(1995)でジム・キャリーがノリノリで演じていた「ハイテンション全身タイツおじさん」の面影は微塵もありません。
今回リドラーを演じたのはポール・ダノでした。ナイスキャスティングでしょう。
「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」(2007)や「プリズナーズ」(2013)など、「ちょっとヤバめのムカつく奴」を演じさせれば彼の右に出る者はそうそういません。
ホアキン・フェニックス版ジョーカーに続き、ヒース・レジャー版ジョーカーに引けを取らない素晴らしいヴィランだったと思います。
リドラーには現在のアメリカが非常に象徴されていました。
現実の存在で言うところの「インセル」コミュニティや2021年に国会議事堂襲撃事件を起こした「オルトライト勢力」を強く連想させます。
彼がヴィランとして誕生する経緯としてはホアキン・フェニックス版ジョーカーに近く、「本来皆が幸せに暮らすために存在するはず」の、「健康で文化的な最低限度の生活を送れるはず」の「社会」から無視された、疎外されてきた人々を代表した存在です。
リドラーはまさにバットマンのオルターエゴであり、リドラーとして活動するエドワード・ナッシュトンは、あり得たかもしれないもう一人のブルース・ウェインです。
エドワードもブルースどちらも孤児として育ちます。ブルースはたまたま生まれが裕福だったために孤児としては最も恵まれた環境で育つことができました。
一方リドラーは半ばブルースという存在のせいで過酷な環境で育ちました。
そしてリドラーもバットマンも、どちらも「悪」を滅ぼそうとしています。
街中のゴロツキをボコボコにして回るバットマンに対して、自らが犯罪者となって巨悪を打倒しようとするリドラーの様は、むしろこちらの方が「ダークナイト的」と言えるかもしれません。
エドワードとブルースどちらも原動力は「復讐心」です。
ブルースはエドワードと戦ううちに、バットマンもリドラーも行っていることは大差ないことに気付き、「本当の正義」や「本当に自分が負うべき役割」とは何なのかを見つめなおします。
最終的にバットマンが自分が全うすべき役割について見つめなおすあたりは、リドラーが「ダークナイト」のジョーカーをかなり意識したヴィランであることが窺えます。
やっぱりジョーカーにはかなわない?
本作の監督であるマット・リーブスがクリストファー・ノーラン監督に向けて「あなたの映画を越えてみせる!」と宣言していたように、本作のリドラーは「ダークナイト」のジョーカーを非常に意識しています。
それではそもそもあのジョーカーはどのようなヴィランだったのか。
今回は「ダークナイト」の話ではないので、なるべくさらっとおさらいします。
(以下、一部「ダークナイト」のネタバレを含みます)
ジョーカーとリドラーの比較
「ダークナイト」に登場したジョーカーは、一言で言えば「悪魔」であり、純粋な「悪」そのものでした。
ジョーカーの行動には金銭的な目的や政治的な目的は一切ありません。
いわばジョーカーは完全に社会という枠組みの外にいる存在です。
「人ならざるもの」と呼んでも良いと思います。(彼には指紋を含めた個人を特定する情報が一切ありませんでした)
彼が行う犯罪とその元になっている思想は非常に根源的なもので、我々人間が社会を営むために前提として「それは存在する」と信じている「秩序」「道徳」「愛」「信頼」「善」といった概念などは全て「嘘」「まやかし」であり存在しない。
自分の中には無いと思い込んでいる「悪」は誰の中にも確実に存在し、「人間とはそもそも “悪” なのである」ということを暴き出す存在です。
ジョーカーは数々の犯罪によってその問いをバットマンに、そして我々に投げかけ、しかも物語後半では「レイチェルの爆殺」と「トゥーフェイスの誕生」によってそれを一度証明してしまいます。
このようにジョーカーは「善 VS 悪」「神 VS 悪魔」という究極の二項対立によって、我々が作り上げてきた社会を根底から覆すことを狙う存在で、そんなジョーカーに対して何とか抵抗しようとバットマンやゴッサム市民が頑張るのが「ダークナイト」でした。
ジョーカーが体現するのは、社会という枠組みを超えた極めて普遍的で純粋な「悪」であり、社会という人工的なシステムから離れて純粋であるがゆえに彼の思想は「真実」なのです。
そして現実に社会の中で生きる我々の多くが、多かれ少なかれ彼が暴こうとしている「真実」に気付きながらも、社会を維持するために気付かないふりをして日々生きているのでしょう。
そんな「真実」に対する抑圧をジョーカーは全力で開放しにかかります。
だからこそ劇中でジョーカーが束の間の勝利に酔いしれる「パトカーでのドライブシーン」に我々はどうしてもカタルシスを味わってしまい、ジョーカーというヴィランが人々が惹きつけてしまう要因だと思います。
一方本作のリドラーは、ジョーカーと同じように「嘘」を暴こうとしているのですが、世界に対する立ち位置が決定的に異なります。ここが最も大きな差別化でしょう。
リドラーが行っている連続殺人は「社会に対する復讐」であり、彼はあくまで社会という枠組みの中にいる存在です。
社会という枠組みの外から社会そのものを脅かす存在(ジョーカー)とは異なります。
そのため「悪」としてのスケール感に関して言うと、どうしてもジョーカーよりは小さなものであることは間違いないでしょう。
ただし、それをもって「やっぱりジョーカーの方が優れたヴィランだ」と断定するのは早計です。
社会という枠組みの中から我々を脅かすリドラーの行動は、とても重要な政治的議論を提示しています。
リドラーの社会に対する主張が持つ説得力
リドラーはゴッサム市長の殺害を皮切りに、次々市内の腐敗した権力者たちに罰を与えていきます。
そして映画のラストでは爆弾によって洪水を起こし、ゴッサムシティを丸ごと海に沈めようとします。
リドラーの最後の犯行は、少々突飛なものに見えるかもしれませんが、彼のこのテロリズムによって提示される主張にはかなり説得力があります。(もちろんテロリズムを礼賛しているわけではありませんよ)
それは、「腐敗した権力者一人ひとりを取り除いたところで根本的な解決にはならず、この社会が本当に良いものになるためには、一度滅びてからやり直すべき」という主張です。
もっと簡単に言えば「穴だらけで今もどんどん沈んでいるこの船を修理するより、もはや新しく作った方が早いよ」という話です。
バットマンやゴードンや新市長がいるゴッサムシティであれば、まだこの主張を真っ向から退けられるほどの希望があるかもしれません。
しかし現実の社会ではどうでしょうか。
もはやどの国も多かれ少なかれそうですが、日本は特にひどく腐敗しています。
数々の利権を守るため決して改善されることない政治家と資本の癒着、政治家とのパワーバランスが逆転してしまっている官僚制、選挙でまともな政治家を選ぶことができない国民、そもそもまともな政治家やそれをまともに選べる国民を育てることができない教育制度…
枚挙にいとまがありません。
実際にこのような社会になってしまった現在、このリドラーの主張をそう簡単に覆せるでしょうか。
たとえ選挙に行かない若者世代が全員選挙に行って政権交代を起こしたところで、この30年間上がらなかった賃金がいきなり先進国標準にまで上がることはありません。
もちろんリドラーのように腐敗した権力者を消して回っても、そのポジションに別の権力者が納まるだけで何も解決しません。
かつて哲学者のハンナ・アーレントが、ホロコーストの中心人物であったアドルフ・アイヒマンの裁判での「しょうもない小役人的な外見」や「命令に従っただけ」という発言などから「悪の凡庸さ」を唱えたように、社会が悪くなっているのはなにも裏で全てを牛耳っている「悪の大ボス」や「ヴィラン」がいて、そいつを倒せば全て解決するというわけでは決してありません。
リドラーの主張に戻ると、「だから一からやり直した方が早い」ということです。
テロリズムではない形で、リドラーのような思想を実行している勢力が主にアメリカで増えてきている「新反動主義者」たちです。
彼らは民主主義や現在の国家体制には完全に見切りをつけ、自分たちエリートだけで暮らす国家を新たに作ろうとしています。
日本でも「もう今から立て直すのは無理だから、この国が衰退していく状況をあえて維持、もしくはさらに加速させて、いったん徹底的に滅びてからやり直すしかない」という考え方(加速主義のひとつ)が存在します。
この映画で提示されるリドラーの主張は、テロとは異なる形で既に社会の中で行動に移され始めています。
そしてなにより我々の社会にはバットマンなんていません。
我々が自分たちで考えて、行動する必要があります。
本作のクライマックスを見て「まーたインセルが暴れてるのか」などと片付けてしまうには問題がある、このリドラーの主張は非常に重要な議論です。
バットマンの正義の相対化
最後にもう一点、リドラーが担う重要な役割は「バットマンの正義を相対化する」というものです。
ダークウェブ的な場所を介して集まったリドラー信奉者たちの一人が、バットマンから過剰な暴力を受けた後、彼に向かって「I’m vengeance.」とバットマンと全く同じセリフを発します。
(ちなみにおそらくこの男性は市長の葬式でブルースに絡んできたオッサンです)
彼のこの発言を受けてブルースは、これまでの自分の活動は正義とは程遠かったことに気付きます。
リドラー信奉者のこの発言も重要な議論です。
「お前は復讐の名の下にゴッサムシティという社会を守ろうと犯罪者を叩きのめしてきたが、我々はお前が守ろうとしているその社会にこそ見捨てられてきた。だから、これこそが我々にとっての復讐である。」
という主張です。
「犯罪者を叩きのめす」という行動だけでは真に人々を救うことはできない、彼の今までの行動は正義としては全く役に立ってはいなかったのです。
このことを思い知ったバットマンは、本当にすべきなのは「手を差し伸べる」ことだと気付き、溺れかけている人々を助けに行きます。
この時バットマンが天井から地上に降りていく、明かりを持ったバットマンが人々を率いていく、そもそも街が沈むという黙示録的なモチーフ、というわかりやすく示唆的な演出の数々がありましたが、ここでただバットマンを英雄視して終わってしまうのはよくありません。
それより重要なのは、「人々を助けること」こそがヒーローの担うべき役割であると同時に、そもそも犯罪者を発生させない、今回のリドラー一派のような「社会から疎外される存在」が生まれないように人々を包摂する社会を築く必要もあるということであり、それはバットマン一人にできることではないということです。
バットマンは「リドラーを倒す」ことはできますが、「次のリドラーが生まれないようにする」ことはできません。
「自分はこの社会の一員ではない」と認識するような人々が多ければ、彼らにはその社会の中にある秩序やルールを守るべき理由はもはや無く、バットマンや警察がいくら犯罪者をやっつけても、こうした人々を減らさないことには根本的な解決にはなりません。
日本でも、犯人が「無敵の人」や「ジョーカー」などと揶揄されるような殺傷事件が度々起きています。
このような課題の解決は、バットマンのような存在が一人いれば実現できるわけではなく、その社会に暮らす我々全員の責務です。
ここについても、ゴッサムシティと違って我々の世界にはバットマンのような頼れる存在はいないわけなので、ゴッサムシティで起きた悲劇からしっかり教訓を得て、我々の社会にも活かしていきたいものです。
このように、リドラーによって提起される問題は非常に現実の社会でも議論されるべき重要なテーマです。
本作はせっかく「アメコミ映画」とはいい難いほどに重厚に作られた映画なので、本作を鑑賞して「バットマンが希望の象徴になった良いオリジン」だとか「アヴェ・マリアを歌うリドラーは親の不在に苦しんでいた」という「アメコミ映画」的な感想で終わってしまうのはあまりにももったいないです。
我々の社会にはバットマンのようなヒーローは存在しませんが、リドラーのような思想を持つ人々は存在します。
ゴッサムシティの行く末を案じるのも良いですが、今の現実が「ゴッサムシティよりマシ」だと果たしてどこまで言えるのか。
このことについてもう少し考えてみても良いのではないでしょうか。
おわりに
もはや何度目の実写化かよくわからない今回のバットマンですが、犯罪映画やミステリーとしては大したことないという問題や、映画のレーティングなど今後ぜひ乗り越えてほしい課題もありました。
しかし、リドラーというヴィランが叩きつける現実社会をありのまま反映した説得力ある主張は、「ダークナイト」のジョーカーにも負けない素晴らしいものだったと思います。
今回、バットマンが「復讐」の象徴から「希望」の象徴になろうとするという、この一作だけ見るとなんだか明るめの着地で、このまま行くといわゆる「ダークナイト」的なバットマン像からは離れた存在になりそうです。
一方ではジョーカーらしきアーカムの囚人や、ロビンの候補になりそうな少年も登場していました。
このロバート・パティンソン版バットマンは三部作になる予定だそうですが、一作目から素晴らしいヴィランが登場したということで、特に今後のヴィランには期待ですね。
おわり
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