作品情報
制作年 | 2023年 |
制作国 | 日本 |
監督 | 庵野秀明 |
出演 | 池松壮亮 浜辺美波 柄本佑 |
上映時間 | 121分 |
あらすじ
“人類を幸福に導く”と謳う組織〈SHOCKER〉によってバッタオーグに改造された本郷猛は、緑川弘博士とその娘、緑川ルリ子とともに組織を裏切り、逃亡する。追ってくる敵を“プラーナ”によって得た力で殺してしまったことに苦悩する本郷。しかし、緑川弘が殺され、死に際にルリ子を託されたことで、『仮面ライダー』を名乗りルリ子と共に〈SHOCKER〉と戦うことを決意する。
引用元:Movie Walker
シン・ジャパン・ヒーローズ・ユニバースと呼ばれる、東宝・カラー・円谷プロダクション・東映の4社が合同で立ち上げたメディア・フランチャイズの最新作です。
庵野氏は本フランチャイズにおいて、脚本は全て自身が担当し、監督としては総監督という立ち位置から関わっていましたが、今回の『シン・仮面ライダー』でついに自身が監督も務めることになりました。
事前の試写会や、全国公開前日に行われた最速上映でのリアクション時点で、「シン・ウルトラマンの庵野っぷりはまだ序の口だった」という声がちらほら聞こえていました。
それもそのはず、もちろん今作は庵野氏本人が監督していることも大きいですが、何しろ本人曰くゴジラやウルトラマンよりも仮面ライダーに最も思い入れがあるとのことなので、観客が上記の感想を抱くのはある意味当然であったと言えるでしょう。
というわけで庵野節が炸裂しているという本作。本作を観た感想を通してその「庵野節」「庵野濃度」といういわば作家性が一体何なのか、そして果たしてそれは作家性として評価すべきものなのかを考えていければと思います。
ゲームのプレイ動画を見ているかのようなぶつ切りの展開
本作を観ていて真っ先に感じるのは展開の単調さです。
設定は基本的に全てセリフで説明、オーグというボスキャラが用意されており、主人公たちは都度指令を受けてボスの元に赴き戦闘(もしくは撤退)。この繰り返しです。
映画的な連続性が感じられず、まるでゲームの攻略プレイ動画を観ているような感覚に陥ります。
このようなエピソードを繋げただけの展開は前作『シン・ウルトラマン』(2022)も同様でした。
この構造は、「1話完結型のテレビシリーズに倣っている」と肯定的に受け取ることも可能ですが、だとしてもそれが映画としての面白さに繋がっているとは思えません。
1話に1時間弱の尺があり、それを十数話放映するテレビシリーズの手法を、2時間の映画で行われても、それはテレビシリーズの劣化版にしかなりません。
また、その各エピソードを動かす原動力にも大いに問題があると思います。
どういうことかというと、本郷猛たちは基本的に政府の言いなりになって活動しているだけであるということです。
孤高のヒーローであったはずの仮面ライダーは、本作において国家権力の犬へとなり下がりました。
(ついでに言うとずっとルリ子と一緒にいるから孤高でもない。)
ここに関しては、仮面ライダーファンではない私でも気になった部分であるし、仮面ライダーファンであればはっきり言って怒るべき部分なのではないかと思います。
加えて、そんな短いエピソードの繋ぎ合わせにもかかわらず、テンポの良さもそれほど感じられません。その主な原因は「ただ会話しているだけのシーンの多さ」「結局戦うのに一回撤退する」「長すぎる遺言動画」等でしょう。
専門用語を並べ立て早口で会話する登場人物たち。
この演出は『シン・ゴジラ』(2016)や『シン・ウルトラマン』で見られたように、単に漠然とした「仕事できる感」を醸し出しているだけなので、会話の内容は大して聞かなくても問題ないようなものなのですが、そうした会話を大体顔のアップ、引きの画、歩いてるだけといった映像で見せてくるので退屈です。セリフで説明すること自体は構わないのですが、その間の映像は視覚的に面白みのあるものにしてもらいたいものです。
本郷猛が自分の持つ力に対して葛藤し、オーグから一度撤退するというくだりも回りくどい印象が勝ちます。エピソードを繋げただけの展開であるために、キャラクターの葛藤や成長が描き切れておらず、描いたとしてもセリフによる説明なため、一度撤退からの再戦という流れが急に感じられます。その上こうした展開が複数回用意されているので、余計テンポの悪い印象へと繋がります。
緑川ルリ子の遺言動画はシンプルに冗長です。ルリ子に人間味がなく、人間味を獲得する過程も妙に急なので特に感情移入もできておらず、こちらは本郷猛のようなリアクションは取れません。ゆえに退屈です。
相変わらずのキャラクター造形
『シン・ウルトラマン』の主人公、斎藤工演じる神永同様に、池松壮亮演じる本郷猛も棒読みキャラクターでした。
神永は宇宙人ということもあって、棒読みキャラであることにある程度必然性がありましたが、今回の本郷猛が棒読みキャラであることの必然性がイマイチ感じられません。
映画において、キャラクターがセリフを棒読みすることがプラスに働くことは基本的にないので、何かしら必然性(ロボットであるとか宇宙人であるとか何かに操られているとか)が必須だと思うのですが、本郷猛に関しては「コミュ障である」という理由付けしか特に無く(コミュ障だから棒読みというのもよく分からないが)、彼が棒読みで喋る必要性が分かりません。そのせいで感情移入もしにくくなっていると思います。
特に序盤で自らの力に戸惑う本郷の「思っていたより…つらい…」という棒読みセリフには、感情をそのままセリフで行ってしまっていることもあって思わず笑ってしまいました。
浜辺美波演じる緑川ルリ子の造形も気になります。
「私は用意周到なの」という決め台詞を持ち、頭脳明晰な生体電算機という設定のようでした。
しかしその割にはオーグたちに度々痛恨の一撃を喰らい、何かと本郷猛に救助され、最終的にはカマキリ・カメレオンオーグの不意打ちで死んでしまいます。頭脳明晰で用意周到なのであれば、もう少し防御力に関して用意をしてほしかったなと思います。
また、彼女の内面的な変化に関しても違和感があります。
コウモリオーグを撃破した後、謎の秘密基地(和室)に拠点を移しますが、これまで無感情で冷静な人物だったルリ子が突然「こんな何もない部屋耐えられない!」という趣旨のアニメヒロイン的なツッコミを大声で叫びます。このシーンは本作の中で明らかに不自然に浮いていたと思います。その後も本郷に対して「そばにいてほしい」と甘える発言をしてみたりするのですが、これもやはり急です。
コウモリオーグ戦を通して二人の距離が縮まったと言いたいのでしょうが、はっきり言って明らかに演出力が不足していると思います。そのようには見受けられません。
映画後半ではルリ子の遺言動画が再生されるのですが、ここまでルリ子の内面を上手く描けていないため、特に感動は起きません。その結果、先述した通りこの遺言動画は冗長に感じられる結果となります。遺言動画を観て「なげぇ…」と思っている我々とは対照的に、本郷は映像を観た後ヘルメットを脱いで号泣します。
ここに関してもケチをつけさせてもらうと、今一番アツいヘルメットキャラクター『マンダロリアン』的な演出はちょっとぐらいできないものかと思ってしまいます。
『マンダロリアン』的演出とは、ヘルメットを被っていて表情が見えないうえ黙り込んでいる主人公ディン・ジャリンをどう撮るかによって、表情が見えずとも我々観客が彼の感情を想像できるという演出です。
この演出が機能すれば、キャラクターの内面描写を観客の想像力に託すことができ、場合によっては大きな感動を呼び起こすことも可能です。
本作の本郷猛はすぐにヘルメットを脱いで嗚咽してしまうので想像の余地がありません。ここでルリ子の遺言動画で感動していない観客と、本郷猛の感情との大きなギャップが顕在化してしまいます。
本郷猛の号泣で観客を感動させたいのであれば、(比較するのは酷ですが)『フェイブルマンズ』のスピルバーグのようにこれでもかと感情移入させてほしいし、それができないのであれば、『マンダロリアン』的演出を行った方がまだ感動できる余地があったと思います。
長澤まさみ演じるサソリオーグに関しても違和感満載です。
突然出てきて、ギャグなのかマジなのか分からない謎の英語セリフをしゃべり出し、かと思えばそのまま殺されてしまいます。しかも仮面ライダーではなく政府の手によって。
彼女が登場した物語上の意義は、その後のハチオーグ戦にて、仮面ライダーが直接手を下すことなくハチオーグを処理するための毒薬の出どころとしてのみでした。
ここも本郷猛の殺生に対する葛藤を描きたかったのでしょうが、この毒薬弾丸によって斎藤工がオーグを殺せるのであれば、仮面ライダーの存在意義はほとんどなくなってしまいます。
また本郷はこのシークエンスで、自分の手でオーグを殺すのは嫌だが他者の手によって殺される分には許容するという状況になっています。これでは本郷猛の持っている価値観にも疑問が生じます。
というわけで、サソリオーグからハチオーグにかけてのくだりに対するツッコミどころは、単なるプロットホールでは済まず、仮面ライダーの本質に関わる実は重大な脚本上の欠陥ではないでしょうか。
英語セリフつながりで言うと、外世界観測用人工知能ケイというキャラクターがいました。
彼も英単語だけをリスニング教材のような発音でしゃべる設定でしたが、ギャグなのか、何か深謀遠慮があっての演出なのか不明です。特に面白くはありません。
アクションもオマージュと言えば聞こえはいいが
アクション演出も褒められたものではないと思います。
VFXのチープさ、それをごまかす為に暗い場所で戦うといった演出には今更驚くこともありませんし、日本映画の限界として受け入れるほかないと思いますが、その他の点に関してはもっとやりようがあったのではないかと思います。
まず全体的にブレが大きくカット割りも細かいため非常に見にくいです。カット割りは元のテレビシリーズよりも明らかに細かいので、原作オマージュではなく監督の演出によるものと思われます。
この影響によるものでしょう。クライマックスでは森山未來演じるイチローとの戦いが繰り広げられますが、ダンサーということもあっていくらでも身体を動かすことができるはずの森山未來を全く活かせていません。やろうと思えば森山未來のフィジカルを全力で発揮させた、もっと引きで長回しの戦闘なども描けたはずです。
しかしここではそのような演出はせず、近い演出を行っていたのはハチオーグ戦や2号戦、要はCGで描いた戦闘シーンです。
やはり庵野監督は本来アニメーション監督ということで、CGであればある程度様々な演出ができるが、人間を使った実写の肉弾戦となると、彼の中にはあまり引き出しがないということの表れであると思います。
戦闘シーンにおいて場所を活かせていないというのも、引き出しの少なさの表れだと思います。
ダム、線路、ビルの屋上、工場、トンネルなど様々な場所で戦闘を行いますが、こうした場所ならではといったような戦い方は一切見られません。場所がどこであろうと飛び上がって殴る蹴るのみ。
このような本作の戦闘シーンは、「原作オマージュ」や「作家性」という言葉で肯定的に捉えることも可能なのでしょうが、私ははっきり言って「単に腕がない」だけではないかと感じます。
作家性という免罪符
『シン・ウルトラマン』の時も顕著でしたが、良作とも当時を再現したいのか新しいものをやりたいのかが非常にどっちつかずで分かりにくいです。
『シン・ウルトラマン』で言えば、CGを使うことでウルトラマンや星人の着ぐるみ感をなくしたり、スペシウム光線の破壊力描写などは、現在の技術で描き直すという姿勢がみられるものの、ウルトラマンが飛ぶ際には人形が飛んでいるように見えるという、原作をそのまま再現した描写も多々ありました。
仮面ライダーについて言えば、やはり戦闘シーンが分かりやすかったと思います。
ハチオーグ戦や2号戦を観れば分かるように、CGバトルを描いた点は、今ならできる当時できなかった仮面ライダーをやろうとした姿勢が見られます。
しかし、仮面ライダーが飛び上がるカットに関しては原作を忠実に再現します。1,2回原作ファンへの目配せ的に行うのではなく、何度も使用しているという点から、このカットは必要なのだという考えのもと使われている演出と思われます。
しかし、こうした演出面における原作再現には一体どれほどの意味があるのでしょうか。
ウルトラマンが人形で飛ぶこと、仮面ライダーが飛び上がる時は2回同じカットを流すことは、ウルトラマンや仮面ライダーの本質ではないはずです。
当時の作り手がウルトラマンの人形を飛ばしたのは、ウルトラマンが飛んでいる画を見せるため、宙返りのカットを2回流すのは、仮面ライダーの跳躍力を表現するために当時用意できる技術の中で工夫を凝らした結果にすぎません。
そのような工夫に頼らずとも本来意図した画が作れる現在、当時の演出をそのままやられてもかえって分かりにくいだけであり、そこに何か喜びを感じるのは懐古主義でしかなく、その懐古主義は作品自体の面白さに直結するものではないと思います。
庵野作品ではこうした描写が「庵野節」や「作家性」という言葉で擁護されがちです。
しかし、ある部分についてはアップデートし、ある部分については原作の再現だけで終えるというのは、アップデートできなかった部分や再構築できなかった要素を、「作家性」という言葉を免罪符に原作再現で誤魔化し、演出力のなさを隠す「逃げ」に見えて仕方ありません。
『シン・ウルトラマン』の時に述べましたが、日本映画のお金のなさというのも非常に大きな足枷となっているのでしょう。ですが、『シン・仮面ライダー』まで通して見てみると、どう考えてもお金の問題だけではないと思います。
この二作は特にですが、「エヴァっぽい」とよく言われます。怪獣が使徒っぽかったり、綾波レイみたいなヒロインが出てきたり、主人公が碇シンジのように自らの運命に悩んでいたり、ショッカーの計画が人類補完計画のようだといった具合です。
庵野作品ファンはそれが美点に思われるのかもしれませんが、本当に美点でしょうか。
ここまで何でもあまりに分かりやすい形でエヴァに結び付けられてしまうのは、それしか描けないからなのではないでしょうか。言い換えれば、引き出しが少ないということです。
本作で目立っていたのはやはりショッカーのアップデートではないでしょうか。
世界征服を目論む地獄の軍団という設定をそのまま流用するのはさすがに避けたようですが、その結果行き着いたのが庵野作品おなじみの目的というのは、なかなか擁護し難いものがあります。
原作の悪の組織を見事に現代へ落とし込んで見せた例といえば、やはりMCUでしょう。
『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』(2014)では巨大な悪の組織ヒドラが登場しました。
この映画ではキャプテン・アメリカ対ヒドラという、まさにアメコミ的なストーリーになっていながら、実はヒドラ=実際のアメリカ合衆国という形で上手く落とし込まれており、エンタメと政治性を見事に両立していました。MCUと比較するのも酷ですが、あまりの政治性のなさやこの辺りの工夫不足というのは、どうしても見逃すわけにはいきません。
実は毎回同じことをしている、というのは他の映画監督にもよくあることですが、「実は」が大切であり、分かりやすい形で表に出ていないがしかし作品群を貫く一貫したテーマこそが作家性に繋がるものだと思います。一方庵野作品はそれとは異なり、分かりやすい形で設定や世界観が一貫してしまっているのです。これは作家性ではなく、独創性の欠乏だと思います。
庵野作品の観客は、作品を観るたびに「やっぱりエヴァっぽいなー」で終わってしまうのではなく、「これしかできないのかよ!」ともっと真剣に批判、批評をした方がいいように思います。
おわりに
ひとまず元々アナウンスされていた「シン・ジャパン・ヒーローズ・ユニバース」作品はこれで終了です。
今後も「シン」シリーズが続くのかは分かりませんが、庵野監督にこれ以上引き出しがないことはこれでもかと露呈したと思うので、今後はもっと違う作り手も参入させてどうにか日本のエンタメ大作を盛り上げていってほしいなと思います。
おわり
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