作品情報
制作年 | 2022年 |
制作国 | アメリカ |
監督 | ダニエル・エスピノーサ |
出演 | ジャレッド・レト マット・スミス アドリア・アルホナ |
上映時間 | 104分 |
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あらすじ
天才医師マイケル・モービウス(ジャレッド・レト)。彼は幼いころから血液の難病を患っていた。
引用元:公式サイト
同じ病に苦しみ、同じ病棟で兄弟のように育った親友のマイロ(マット・スミス)の為にも、
一日も早く、治療法を見つけ出したいという強い思いからマイケルは実験的な治療を自らに施す。
それはコウモリの血清を投与するという危険すぎる治療法だった。彼の身体は激変する――
全身から力がみなぎり隆起した筋肉で覆われ、超人的なスピードと飛行能力、
さらには周囲の状況を瞬時に感知するレーダー能力を手にする。
しかし、その代償として、抑えきれない“血への渇望”。まるで血に飢えたコウモリのように。
自らをコントロールする為に人工血液を飲み、薄れゆく<人間>としての意識を保つマイケルの前に、
生きる為にその血清を投与してほしいとマイロが現れる。
懇願するマイロを「危険すぎる、人間ではいられなくなる」と拒み続ける、マイケル。
しかし、NYの街では、次々と全身の血が抜かれた殺人事件が頻発する――
ソニー製マーベル映画の新作です。
ソニー・ピクチャーズが製作するマーベル・コミック原作の映画シリーズを「ソニー・ピクチャーズ・ユニバース・オブ・マーベル・キャラクター(SPUMC)」と呼んでいたことはもちろん常識、「コモン・センス」かと思います。
それが2021年に「ソニー・スパイダーマン・ユニバース(SSU)」と呼称が改められ、本作はシリーズ第三弾になります。
ソニー製マーベル映画といえば、『スパイダーマン』(2002)という映画史に残る作品を生み出した功績は大変大きいのですが、以降『アメイジング・スパイダーマン』(2012)などはあったもののやはり『アイアンマン』(2008)から始まったマーベルスタジオによる「シェアード・ユニバース」という映画製作の勢いには完全に敗北しており、2018年の『ヴェノム』や『スパイダーマン:スパイダーバース』の登場によってようやくある程度批評的な評価や人気を取り戻しました。
その後ソニーのマーベルにもユニバース化が導入されることが正式に発表され、『ヴェノム』を第一弾として「ソニー・スパイダーマン・ユニバース(以下SSU)」が始まりました。
このSSUとして始まったソニー製マーベル映画がついに世界中の関心を集めることとなったのは、もちろん『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』(2021)での「マーベル・シネマティック・ユニバース(以下MCU)」とのクロスオーバーでした。
厳しい見方をすれば、結局マーベル・スタジオの人気にあやかるしかなかったという点でやはりソニーの敗北であるという見方もできてしまいますが、いずれにせよこの作品によって、SSUは今後の展開に対して世界中の期待を背負うことになりました。
そうした世界中からの絶大な期待を寄せられたSSUが、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』での衝撃展開の後に満を持して出してきたのがこの『モービウス』でした。
ここがダメだよ『モービウス』
この映画は、アメリカ最大の映画レビューサイト「Rotten Tomatoes」で、本作を評価している批評家たちの割合が「17%」(2022/4/8現在)、その他各メディアでのレビューもほとんどが「酷評」です。
正直、私個人もこの映画の内容そのものを好意的に評価するのは少々厳しいです。
「否定派」の中でも好意的なレビューでは、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』や 『ザ・バットマン』の直後だから物足りないと感じるのは仕方がないという意見も少なくありません。
しかし、申し訳ないですが私個人としては、それら直近の映画と比べるまでもなく本作は問題だらけだと思います。
私の感想を端的に申し上げれば、「時代遅れ感満載」です。
15~20年前くらいに公開されている映画であれば、私自身ももっと楽しめたと思うし、批評的にももっと評価されていたかと思います。
本作に散見される「既視感」「目新しさのなさ」やそれらによって生じる「盛り上がりのなさ」を中心に私の感想を述べていきたいと思います。
「敵の外見も能力も主人公とほぼ同じ」問題
これは本当に見ていて2秒で飽きます。
MCUでも『インクレディブル・ハルク』(2008)のアボミネーションや『ブラックパンサー』(2018)のキルモンガーなどそれなりにいますが、そういった作品は少数派です。
しかし、SSUはまだ三作目とはいえ『ヴェノム』(2018)のライオット、『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』(2021)のカーネイジと続き、三作品全てでこの設定を用いています。
「仏の顔も三度撫ずれば腹を立つ」という言葉がありますが、私は仏ではないので二度目くらいでもう十分です。
この設定がなぜ飽きるのか。
まず外見が似ていると、両者が取っ組み合いになって暴れ回った際にどっちがどっちなのかすぐに分からなくなります。
また、使う能力や技も似通っていれば、アクションシーンにおける二者の見分けがいよいよつかなくなり、そのアクションシーン自体も何が行われているのかがわからなくなります。
加えて、二者が使用する技や物理的な制限(空を飛べない、飛び道具が無いなど)も似ているため、アクションのバリエーションも幅が狭まります。
『モービウス』終盤の戦闘シーンではまさにこの状況が起きており、もっと言えば『ヴェノム』シリーズ二作も同様でした。
戦闘シーンがこうした状況の映画が三本も続けばさすがに飽き飽きします。
また、この設定を用いる場合「敵とほぼ同じ能力である主人公がなぜ勝つのか」という疑問に対する説得力がある程度必要になります。
本作でマイケルがマイロに勝った理由は「マイケルだけがコウモリを操れたから」であり、ここにマイケル自身の倫理観や(善であれ悪であれ)内面的な成長は特に反映されていません。
マイケルだけがコウモリに受け入れられる理由もあまり説得力がありませんでした。
(コウモリからしたら、マイケルは自分たちの仲間を捕らえて実験し能力を奪った存在であるのになぜ敵意を抱かないのか)
これではマイケルが勝利するのは「主人公だから」という以上の理由が見出せません。
この程度のロジックで許されるのはやはり20年前ほどか、少なくともMCU登場以前のアメコミ映画だと思います。
既視感満載アクション
まず獣化、モンスター化した人間が高速で動き回るということ自体には目新しさは皆無です。
それは良いとしても、その高速アクションの途中で一時停止的なスローモーションが入るという演出も「時代遅れ感」が否めません。
これも直近では『ヴェノム』シリーズで見受けられましたが、こうした演出は『マトリックス』(1999)のバレットタイムや、『300<スリーハンドレッド>』(2007)のアクションなどを彷彿とさせます。
吸血鬼つながりで言えば、『ブレイド2』(2002)でギレルモ・デル・トロがここまで一時停止的なスローではありませんでしたが、似たようなスローモーション使いをしていました。
このように、こうした「スローモーションを見せ場にする」という演出もやはり「20年前くらいによく見た」光景です。
また、本作全編を通して使用されていた滲むインクのような、煙のようなエフェクトというのも目新しくはありません。
『X-MEN2』(2003)に登場するナイトクローラーがあのようなエフェクトを纏って移動していました。
これも20年ほど前から見てきたもので、それを今大々的に見せられても、特別新鮮な感動を覚えることはできません。
「はいはいこれね」で終わります。
大した存在理由のない「サブキャラ」たち
主人公マイケルと敵のマイロ以外のキャラクターは存在意義があまりに薄いです。
正直言って彼らがいなくてもストーリー上大した問題はありません。
マルティーヌはまだ良いとしても、FBIとは思えない誰でもできる推理に基づいてマイケルを逮捕し、しかも逃げられ、マイロの殺人についてはただ見ているだけの捜査官二人組は役立たずすぎます。
同じく、マイケルとマイロの育ての親であるニコラスに関しては、二人の父親とは思えないほど存在感が無く、何の役にも立たないまま死にます。
ついでにこれも言っておくと、映画の最後でマルティーヌが吸血鬼の一人になって甦るシーンがありました。
これはついこの間『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』で見ました。
全く同じ事をやってどうするんですか。
このサブキャラたちは見ていて本当に残念でした。
かと言って「メインキャラ」も大概薄い
マイケルの親友であり敵対者となるマイロもなかなか残念なキャラ造形です。
まず彼がなぜ、ノーベル賞にも匹敵するマイケルの研究をあれだけ支援でき、それでも余りあるほどの大富豪なのか全く不明です。
そして彼がヴィランとして立ちはだかるようになる経緯も、元気そうに見えるマイケルに憧れて血清を打ってしまうのは分かりますが、その後ニコラスやマルティーヌを殺す動機が「個人的な嫉妬心」というのはヴィランとして小さすぎました。
問題は主人公マイケルです。
ヒーローとしてもヴィランとしても極めて中途半端なオリジンでした。
本作を通して、マイケルは特に何も成長していません。
医者として活動する彼が、元々持っていた正義感や倫理観に基づいて、殺人を繰り返す親友を止めただけです。
ただ、そこにはマルティーヌやニコラスを殺された個人的な復讐心もあったわけですが、復讐に対する反省みたいなものは特に描かれません。
最初に犯罪者である傭兵たちを殺しており、親友も復讐によって殺しているという点でヒーロー感は薄いですが、一方でヴィラン感も非常に薄いです。
マイケルは傭兵を殺して以降、血を飲むための殺人はしないと決心しそれを最後まで貫きます。
自分は殺人を犯さないうえ、殺人を繰り返すマイロに対して「自分が彼を止めなければならない」と使命感も持っていました。
この辺りはヴィラン感のないまともな人間性を持っています。
このヒーローでもヴィランでもないマイケルの状況を、「善悪の曖昧さ」ではなく「中途半端」に感じられてしまう原因は、マイケルの中に一つ揺るぎない信念的なものが見えてこないからだと思います。
彼は元々自身の病気を治すためにコウモリ研究をしていたわけですが、吸血鬼になって以降彼がどうしたいのかイマイチ分かりにくいです。
映画を見ていると、この力は人間としての自分が失われていくようだから、マイロを止めるための薬を開発してそれを自分にも使おうとしているなと思ったら、マイロを殺した結果急に吸血鬼としての自分に目覚めた様子でした。
要するに彼の中の葛藤が不足しており、空っぽのキャラクターに見えるということです。
『ジョーカー』(2019)のような、悪にもかかわらずその誕生にカタルシスを抱いていしまうヴィラン誕生譚でもなく、ヒーロー誕生譚という見方では、吸血鬼になった後に誰かを助けるといったことをしていない点でヒーローとしても説得力に欠ける、非常に中途半端なキャラクター誕生譚でした。
何とか見出す擁護ポイント
上映時間104分
これは間違いなく良かった点です。
2時間越えは当たり前、3時間近くになる映画が増えてきている昨今、上演時間を2時間以内に収めてくれたのは評価したいと思います。
(正直90分くらいで良かった話な気もするけど)
マット・スミス渾身のダンス
先ほどマイロというキャラクターに関しては苦言を呈しましたが、マイロを演じたマット・スミスのパフォーマンスは素晴らしかったと思います。
特に血清を打った後、人間の血を吸って肉体的な自由を得、喜びの余り一人でダンスを踊るシーンです。
この映画を見て数日たった後でもはっきり覚えているシーンと言えばここ、という面は正直あります。
問題のポストクレジット
本作が抱える最も重大な問題として大勢の意見が一致するのはポストクレジットシーンだと思います。
ポストクレジットまで見終えた多くの観客は思います。
「あのシーンなくね?」と。
あのシーンとはもちろん、予告編にはあった、マイケルが歩く背後にスパイダーマン(サム・ライミ版)の絵が映り込むシーンと、マイケル・キートン演じるエイドリアン・トゥームス(らしき男)がマイケルを呼び止めるシーンです。
もう少し細かい点だと、「オズコープ」のビルが見える、「デイリービューグル」の小さな記事に「ライノ」の名前がある、などです。
予告編を見ていた世界中の観客は、『モービウス』という作品の中でサム・ライミ版と「アメイジング」両方の『スパイダーマン』シリーズ、そして『スパイダーマン:ホームカミング』シリーズのユニバースがクロスオーバーしているのかと期待を膨らませていました。
しかし蓋を開けてみるとどのシーンも本編には登場せず、「なんか思ってたのと違う」ポストクレジットシーンが流れていました。
それは、エイドリアン・トゥームスが『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』での事件の影響で『モービウス』のユニバースにやってきて、ヴァルチャーとしてマイケルに接触するというものでした。
ここでマイケルが「スパイダーマン」という単語を聞いて問題なく受け入れている点、そしてなぜ当たり前のようにスパイダーマンに敵対しているのかという数々疑問が浮かんできますが、これにはとてもかわいそうな事情があります。
予告編と本編が全然違う問題
一言で言えば、全部コロナのせいです。
本作は本来であれば2020年7月に公開されている予定でした。
つまり、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』よりもだいぶ先に公開されるはずだったのです。
どういうことかというと、本作はそもそも『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』で行われたようなマルチバースによるMCUとのクロスオーバーは想定していなかったということです。
本作の撮影は2019年に終了しており、この時点ではソニーとディズニーが新しい契約を締結し、正式にソニー製マーベル映画とMCUがクロスオーバー可能になったことが決まった段階に過ぎず、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』の製作はまだ脚本が書かれ始めたような段階でした。
そのため、本作が作られた時点でのソニーが予定していたMCUとのクロスオーバー方法は、『ヴェノム』でトム・ホランドがカメオ出演するため撮影まで終えていたという話からも分かる通り、単純に「同一ユニバース」でのクロスオーバーであり、「マルチバース」は想定できていなかったということです。
なので予告編に登場するエイドリアン・トゥームスのくだりは、SSUとMCUが同一ユニバースである前提で撮影されていたものだったと思われます。
また厄介なのは、本作の内容を狂わせた『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』も、コロナによって予定が狂った映画であるということです。
『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』は、本来『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』(2022)の後に公開される予定だった映画です。
それがコロナの影響で公開順が前後することとなり、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』は脚本の一部修正などが施されて、あのような映画になりました。
『モービウス』はそうした事情のしわ寄せを見事にお見舞いされた結果、あんな意味の分からない、何も驚きのないポストクレジットシーンとなってしまいました。
なのでこの点に関しては、『モービウス』も本作を監督したダニエル・エスピノーサも「お気の毒」としか言えません。
おわりに
コロナの影響によって生じた問題のしわ寄せを一手に引き受けることとなってしまった事態に対しては同情してしまいます。
ただ、そうなった原因と言えば、現在の少し行き過ぎてしまったともいえる「クロスオーバー」です。
あらゆる作品がクロスオーバーして繋がり、一つの巨大な物語を築き上げていくのは見ていて楽しいですが、場合によっては本作のように「クロスオーバー」に殺されてしまうような作品も生じてしまうという事実が浮き彫りになったと思います。
むやみにクロスオーバーを重ね、世界観を広げすぎるというのも考え物かもしれませんね。
しかし、本作に限定して言えば、前半で述べてきたようにこうした事情を抜きにしても単体作品としてなかなか問題が多いと思います。
ですが、今回のところはジャレッド・レトの50歳とは到底思えないあの肌のツルツル具合に免じて良しとします。
おわり
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