作品情報
制作年 | 2022年 |
制作国 | アメリカ |
監督 | デイミアン・チャゼル |
出演 | ブラッド・ピット マーゴット・ロビー ディエゴ・カルバ |
上映時間 | 185分 |
あらすじ
1920年代のハリウッドは、すべての夢が叶う場所。サイレント映画の大スター、ジャック(ブラッド・ピット)は毎晩開かれる映画業界の豪華なパーティの主役だ。会場では大スターを夢見る、新人女優ネリー(マーゴット・ロビー)と、映画製作を夢見る青年マニー(ディエゴ・カルバ)が、運命的な出会いを果たし、心を通わせる。恐れ知らずで奔放なネリーは、特別な輝きで周囲を魅了し、スターへの道を駆け上がっていく。マニーもまた、ジャックの助手として映画界での一歩を踏み出す。しかし時は、サイレント映画からトーキーへと移り変わる激動の時代。映画界の革命は、大きな波となり、それぞれの運命を巻き込んでいく。果たして3人の夢が迎える結末は…?
引用元:公式サイト
デイミアン・チャゼル監督最新作です。
両親は大学の教師、高校時代はジャズドラマーを目指し、その後ハーバード大学で映画の勉強。長編映画デビュー作の『セッション』(2014)でいきなりアカデミー賞で複数部門を受賞し、以降『ラ・ラ・ランド』(2016)、『ファースト・マン』(2018)と監督作が毎回各種映画賞でノミネートされてしっかり受賞もしてしまう。それでいて現在38歳という若きエリート映画監督の最新作は、1920年代のハリウッドを舞台にした映画!しかも出演ブラッド・ピット!
ということで、これまで凄まじいキャリアを歩んできている彼は、約8000万ドルという高予算を掛けてはやくも「映画についての映画」「ハリウッド映画論」的な領域に手を出してしまいました。
アメリカでは昨年12月に公開され、結果として興行的には大コケ、批評的にも賛否が分かれてしまいました。
先日公開された日本でも賛否はかなり分かれているようです。
私個人としてはこの映画を結構楽しめた派なので、基本的には肯定側からの見方にはなりますが、批評的に芳しくなかった要因と考えられる本作の問題点を踏まえつつ、本作の楽しみ方を考えていきたいと思います。
本作の着想元『ハリウッド・バビロン』
本作は『ハリウッド・バビロン』という書籍を下敷きにしています。
『ハリウッド・バビロン』とは、映像作家のケネス・アンガーが書いた、1900年代から1950年台にかけての、いわゆるハリウッド黄金期からその終焉までの時代を生きたスター:ゴールデン・ピープルたちの過激なゴシップ集です。
写真が豊富に使用されており、中には自殺や事故死したスターの遺体の写真も含まれるという過激ぶりで、中で紹介されているゴシップも現在ではその多くが否定されているという、非常にめちゃくちゃな本です。
ケネス・アンガーは1920年代のハリウッドを、煌びやかだが欲望渦巻く汚れた都市バビロンになぞらえました。今回の映画もそんなケネス・アンガーの捉え方にちなんで『バビロン』と名付けられています。
『バビロン』は内容についてもこの『ハリウッド・バビロン』によるところが大きく、登場人物の多くはこの書籍で紹介された実在の人物たちをモデルにしており、エピソードのいくつかもこの書籍から引用されています。
そのため、この書籍を読んだことはなくとも存在だけでも知っていれば、この映画序盤の乱痴気騒ぎの過激さ、作品全体を貫いているクレイジーさやグロテスクさは飲み込みやすいでしょう。
逆にこの書籍を知らなかったり、1920年台ハリウッドに対するイメージが一切ない人がいきなりこの映画を観てしまうと、かなり面食らうであろうし、この過激さやグロテスクさが単に監督の悪趣味なのだという誤解を抱いてしまうかもしれません。
1920年代のハリウッドとは
1920年代のハリウッドは無法地帯に近い状況でした。
1900年代初頭に映画製作者たちがハリウッドに移住し始め、それまではただの村で広大なオレンジ畑しかなかったハリウッドが街になり始めた頃です。当時の西海岸はまだそのような状況のため警察の目はほとんど行き届いていません。また、当時のアメリカは工業化が進んでどんどん好景気になっていき、国全体が浮かれ気味となっていた頃でもあります。
それまでは汽車の到着や景色の記録映像といったような作品だったのが、19世紀末からサイレント映画がアメリカ人の娯楽として全国的に定着します。人々は出演者によって劇場に足を運んでいるということがハリウッドに伝わり始めると、一映画制作のスタッフでしかなかったはずの俳優という立場が、スタジオの収益を左右する最も重要なポジションに変貌しました。スター・システムの誕生です。
映画俳優はたちまち多額の収入を得られるようになり、国内外のあらゆる地域からこのアメリカン・ドリームを手にするため若者たちが殺到しました。
「スター」というハリウッドの生み出した新たな生き物が、実際にどのような私生活を送っていたのか。
確かに『ハリウッド・バビロン』でケネス・アンガーが綴ったようなグロテスクさは誇張があるのでしょう。しかし、警察権力のほとんど及んでいない地域で、掃いて捨てる程の金を手にした者たちが多く存在しているこの状況や、当時のハリウッドの倫理の崩壊を受けて、後にあの悪名高い自主規制コード「ヘイズ・コード」が制定されたことなどを鑑みれば、『バビロン』が描くハリウッド狂乱の時代はそれほど行き過ぎた誇張でもないであろうことは想像に難くないはずです。
デイミアン・チャゼルもこのような理解に基づき『バビロン』の建造に着手しました。
実在のスターをモデルにした登場人物たち
基本的に本作の主要登場人物には実在のモデルが存在します。
ジャック・コンラッド(ブラッド・ピット)
主要キャラの一人、ブラッド・ピット演じるジャック・コンラッドはジョン・ギルバートをモデルにしています。
”ジャック”はジョン・ギルバートの愛称だったジャックから、”コンラッド”はジョン・ギルバート同時代に活躍していた二枚目俳優で、当時ジョン・ギルバートとよく比較されていたというコンラッド・ネーゲルから取っていると思われます。
ジョン・ギルバートのキャリアについては公式サイトの町山智浩氏による解説をご覧いただくのが一番だと思うのでここでは紹介しません。
代わりに『ハリウッド・バビロン』における興味深い言及について紹介しておきます。
ケネス・アンガーによれば1937年の『スター誕生』は、主人公の結末についてはジョン・バワーズの溺死をモデルにしているが、没落の物語に関してはジョン・ギルバートがモデルであると述べています。
(ついでに言うと1951年のテレビ版『スター誕生』はコンラッド・ネーゲルが主演している。)
この点を頭に入れておくと、ジャック・コンラッドのあの顛末というのも非常に納得なのではないでしょうか。
ネリー・ラロイ(マーゴット・ロビー)
マーゴット・ロビー演じるネリーは、実在の女優クララ・ボウをモデルにしています。
彼女がセックス・シンボルとして20年代のハリウッドで成功していく様子、演技力の高さ、悲惨な生い立ちなどはクララ・ボウのエピソードから着想を得ています。
こちらについても公式サイトの解説やパンフレットを読んでいただければクララ・ボウについてはよく理解できると思うので、同じく『ハリウッド・バビロン』で触れられているクララ・ボウのエピソードについて紹介したいと思います。
『バビロン』では『ハリウッド・バビロン』で紹介されているエピソードがいくつか描かれています。
最も大きな描かれ方をしていたのはネリーが初めてのトーキー映画の撮影に苦戦するシークエンスです。
彼女の声量が大きく録音室のメーターを壊してしまうシーンは『ハリウッド・バビロン』でケネス・アンガーが紹介しているエピソードです。
もう一点は、こちらはデマである可能性のほうが高いため、『バビロン』では相当控えた描写になっていました。
それは、ネリーの父親がヘビと戦うことになるあのパーティーでの1シーンです。
あのパーティーにネリーが乗り込んでくる際に、大学フットボールチームの男性たちを引き連れており、これは『ハリウッド・バビロン』の中で紹介されている、「クララ・ボウは南カリフォルニア大学のアメフトチーム11人全員を相手した」というゴシップに基づいたものです。
ネリーは自己に対する自信に満ち溢れ、持ち前の野心と我の強さ、そして自らの性を武器に1920年代のハリウッドで大スターまで上り詰めます。しかし美点であったその野心と性的な魅力のために、移ろいでいく「時代」に取り残され、追いつくことができぬまま映画という舞台から去っていくこととなります。
マニー・トレス(ディエゴ・カルバ)
『バビロン』に登場するキャラの中で最も我々観客と近い視座を持つマニーにもモデルが存在します。
キューバからアメリカに渡り、マニーのようにひょんなことから俳優と親しくなり、ハリウッドで成功していったルネ・カルドナがモデルです。
ただしルネ・カルドナが知り合った俳優はジャック・コンラッドにあたるジョン・ギルバートではなく、同じく当時大スターだったルドルフォ・ヴァレンティーノだったようです。
上記の主人公3名以外にも、大抵のキャラクターには実在の人物が投影されたものとなっています。
簡単に挙げていけば、サイレント映画の字幕を手掛けていたレディ・フェイ・ジューはハリウッド初の中国系女優アンナ・メイ・ウォン、ジャズミュージシャンとして映画出演を果たすシドニー・パーマーは、同じくジャズミュージシャンとして映画出演もしていたカーティス・モスビー。
ハリウッドのゴシップ・コラムニストであるエリノア・セント・ジョンは、クララ・ボウの出世作となった『It』の原作者である作家エリノア・グリン。
ネリー主演のトーキー映画を監督していた女性は、実在の女性監督ドロシー・アーズナー。
クリストファー・ノーランもビックリなほどカメラを何個もぶっ壊して戦争映画を撮っていたドイツ人監督はエーリッヒ・フォン・シュトロハイム。
冒頭のパーティーで亡くなっていた若い女優はヴァージニア・ラッペ。
彼女を死なせてしまう太った男は、ヴァージニア・ラッペを強姦の末殺害したとして逮捕された(のちに無罪判決となるがキャリアは修復できなかった)コメディ俳優ロスコー・”ファッティ”・アーバックル。
などなど挙げたらキリがないほど、実在の人物からインスパイアされたキャラクターを用意しており、デイミアン・チャゼルの「評論家たちが何を言ってこようと俺が映画史を描いてやらぁ」という気概が感じられます。
”映画史”に飲み込まれていった者たちへの鎮魂歌
本作に対して言いたいことは様々あり、詳しくは後述しますが、しかしながら私は本作を評価したいのはまさに本作のテーマであるこの部分においてです。
”映画”というあまりにも巨大な存在に憧れ、夢を見て、人生を捧げた人々。
そんな人々の中でも「映画史」というスポットライトが当たらなかった人々にスポットライトを当てたのがこの映画です。
ネリーは若く野心のある女性で、自らの性を武器にのし上がっていきました。当時のハリウッドは自由奔放で何でもアリ。夜な夜な開催されるパーティーは各々が欲望を解放する場でした。まさに「彼女の時代」だったのです。
しかし20年代末に入ると世界恐慌が始まりアメリカ全体を覆っていた浮かれ気分が消沈、かねてからハリウッドの状況を問題視していた宗教界の声に支持が集まるようになり、真面目で品行方正であることが良しとされる世の中になっていきます。
当然開催パーティーの様相もすっかり変わり、パーティーというのは政治とビジネスの場となってしまいます。
ケネス・アンガー曰く「ハリウッドが終わった」瞬間です。
このように変化したハリウッドにネリーのような人間の居場所はありません。ごく一部、ジョーン・クロフォードのように適応し生き残れたスターもいます。あるいはマニーのように徹底的に自己のアイデンティティを消し去り、レズビアンだからという理由でレディ・フェイ・ジューを解雇したり、シドニー・パーマーに対して黒塗りを要求するほどの冷徹さを身に付け生き残った業界人もいます。
一方ネリーは、持ち前の我の強さと性という武器があったからこそ今の地位にたどり着けたわけで、自己を偽ってハリウッドにしがみつくことはできませんでした。
しかしこうなったのは何もネリーが悪かったのではありません。
単に「彼女の時代が終わっただけ」のことなのです。
さらに胸を打たれるのはやはりジャック・コンラッドです。
彼はサイレント映画のトップスター。映画業界をさらに発展させるため、トーキー映画の登場にも好意的でした。
多くのサイレント俳優が「見た目と声が合わない」という理由から問答無用で映画界から消えていく中、ジャックの声には問題なく(ジョン・ギルバートも悪い声ではなかった)、トーキー映画にも主演します。しかし彼のトーキー作品を観た観客たちは、彼が「I love you」と繰り返しながらキスをするシーンで爆笑します。
このエピソードはジョン・ギルバートの身に実際に起きたことであり、ジョン・ギルバートをモデルにした映画『雨に唄えば』(1952)でも描かれるエピソードです。
サイレントからトーキーへの移行を描く作品として”映画史に残っている”『雨に唄えば』の主人公ドンは、ダンスを身に付けてミュージカル俳優としてトーキー映画時代も生き残ります。そして映画はエンターテインメントとして一段階進化を遂げてめでたしめでたし、という形で終わります。
しかしジャック・コンラッドもジョン・ギルバートもそのような適応はできませんでした。
彼らだけではありません。数多くのサイレント俳優たちが、トーキー映画の到来によって観客が驚嘆する中、静かに消えていったのです。
しかしこうなってしまったのもやはり彼ら自身のせいではありません。
単に「彼らの時代が終わっただけ」なのです。
そして言うまでもなく、そんな「時代が終わった」スター、ジャック・コンラッドを演じたのが、まさに現在のハリウッドにおけるトップスターであるブラッド・ピットが演じている点が重要です。
ブラッド・ピットはまだまだスーパースターですが、彼の全盛期といえばやはり『セブン』(1995)、『ジョー・ブラックをよろしく』(1998)、『ファイト・クラブ』(1999)など90年代末から2000年代初頭あたりです。
当時彼がいたハリウッドトップスターの座は、現在だとドウェイン・ジョンソンなど新たなスターに取って代わられています。
「映画史」はまだ百数十年そこらではありますが、既に人間の一生よりも長く、数えきれないほどの人間たちがその中で生き、一度の人生では見切ることのできない膨大な数の作品が生み出され、次から次へと現れるスーパースターたちが浴びる眩しい光の裏で、多くの人間が「映画史」に人知れず飲み込まれ消えていくのです。
ブラッド・ピットほどの人物であれ、いずれは彼も映画史に飲み込まれ消えていきます。
しかし彼はラッキーでした。スーパースターの座に座ることができ、映画作品は彼の死後も残り続けて後世にも名を残すことができます。
ただ、「彼の時代は終わった」ことはどうしようもないのです。
『トップガン マーヴェリック』(2022)ではトム・クルーズが「でも今日じゃない」と言って我々を勇気づけてくれました。
とは言ってもいつかその「今日」は来るのです。
現にジャック・コンラッド、ジョン・ギルバートには来たのだから。
ブラッド・ピットは明らかにジャック・コンラッドに自らのキャリアを投影して演じています。
エリノアにインタビューを受けるジャックは、「あの頃が恋しい?」と聞かれるもタバコをふかしながら否定します。
しかしその左手は震えていました。
最後のパーティーでレディ・フェイと会話するシーンの表情はとても印象的です。
「あの頃の俺たちはすごかったよな」
時代のうねりをなんとか乗りこなそうと挑んでみたがどうすることもできなかったジャックは、最後には自ら自分の時代が終わったことを受け入れ、あの結末を迎えます。
そしてエンディング。
1952年、マニーは再びハリウッドに足を踏み入れ、映画観でサイレントからトーキーへの移行を描いた『雨に唄えば』を鑑賞します。
ジャックをモデルにした主人公は、ダンスを武器にサイレントからトーキーへの移行を見事乗り切ります。
本当のジャックはサイレント映画時代に取り残されてしまったにもかかわらず。
ジャックは確かに映画界の頂点にいた。誰もが彼のことを知っていた。しかし彼はトーキー映画の登場によって映画界から静かに消えていった。
”映画史”は『雨に唄えば』という傑作を生みだし、そんな映画界の頂点にいたスター、ジャック・コンラッド(ジョン・ギルバート)の人生すら飲み込んでしまった。
ジーン・ケリーの超絶ダンスに周囲の観客が湧く中、”映画史”に飲み込まれていったジャックに一人で思いを馳せ、泣いてしまうのです。
『バビロン』は映画賛歌なのか
『バビロン』は映画愛に満ちた作品だ、というような感想が一定数見受けられますが、果たして本当にそうでしょうか。
映画に対する愛も見えますが、全体としてはかなり相対的な視点で映画を語っているように見えます。
”映画史”というスポットライトから外れていった人間たちにスポットライトを当てたというこの映画のアプローチ自体は確かに映画愛を感じるところだと思います。
具体的な内容で映画に対する愛として分かりやすかったのは、ジャックが再婚相手のブロードウェイ女優エステルを怒鳴りつけてしまうシーンでしょう。
口には出さずとも明らかに映画を見下していた彼女に対し、思わずジャックがブチギレて映画の素晴らしさを力説します。
ここでのジャックのセリフは、まさに映画の「良い側面」についての説明でした。
しかしこの映画はしっかり「悪い側面」にも言及しています。
それが映画終盤のトビー・マグワイア登場シークエンスです。
あの場面で妙に映画のトーンがホラー映画チックになりますが、あの地下の怪しげなパーティーは映画冒頭のパーティーと対応しており、地下で行われている見世物は映画のことでもあります。
トビー・マグワイアが凄まじいヤク中ぶりで演じていたジェームズ・マッケイは、見世物ショーに対して「金を出せばなんだってやるんだ」と言います。
これはまさに映画が持つ負の側面、「見世物としての映画」について言及していると考えられます。
ハリウッドは自らを「夢の工場」と自称してきましたが、一方では興行収入のためならエロでもグロでも、人殺しだろうが戦争だろうがハリウッド自らの歴史だろうが、全てをエンターテインメントとして消費させてしまう巨大な装置でもあります。
『バビロン』は、映画が持つ見世物としての側面を、映画の中で見世物を見せることで観客たちに思い出させます。
この映画は、煌びやかでハイテンションな時代の雰囲気の中で実は多くの死が描かれています。
薬物のOD、撮影中の事故死、ギャングと関わって死、そして自殺。映画という巨大なものの中で生きることは、実は常に死と隣り合わせであるということが分かります。
やはりここでも、無条件にハリウッド全盛期を憧憬するのではなく、事実映画業界では亡くなる人が多かった点を描くことで、「夢の工場」の恐ろしい一面を我々に見せるのです。
ギャグの入れ方は考え直した方がいい
さて、ここまでいろいろな言いたいことはいったんすべて脇に置いて褒めてきましたが、ここからは褒められない点について語っていきたいと思います。
まず観ていて最も気になった点は、ギャグが面白くない、または適切ではない場所でギャグをやってしまっているという点です。
特にマズいのは撮影中の事故死をギャグにしてしまった点です。
実際に昔のハリウッドでは、今よりはるかに事故死は多かったわけですが、それを笑いどころにするのはいかがなものでしょうか。
当時の映画制作者もふざけて映画を撮っていたはずはありません。今のように安全性を確保する時間もお金も余裕がなかったために、やむを得ず劣悪な環境で映画制作をしていたわけです。
そんな中で主人公たちと同じように、映画に夢を見て働いていたスタッフの事故死をギャグにしてしまうのは、かなり侮辱的だと思います。
序盤の戦争映画撮影のシークエンスで、ジャックが電話している周囲で剣が飛んできたり大爆発が起きても一切動じないというシーンも笑いどころになっていましたが、演出がオーバーすぎます。
サイレント映画時代の演出にリスペクトを捧げてあえてそうしている、という好意的な見方もできるかもしれませんが、だとしてもスベっていると思います。
チャゼル監督作品にはギャグのイメージはあまりないため、ギャグ演出にも挑戦したというその意欲は買いたいのですが、結果は明らかに失敗だったと思います。
群像劇はまだまだ
本作はチャゼル作品としては初めての群像劇でした。
『セッション』は主人公と教師、『ラ・ラ・ランド』は二人の男女、『ファースト・マン』は主人公と妻(というかほぼ一人)と、基本的に1対1の関係性を描く作品ばかりでした。
ところが今回は主人公がジャック、ネリー、マニー、さらにはシドニーやレディ・フェイなど多くのキャラクターの物語が語られますが、群像劇としてはまとまりがなかったように思えます。
キャラクター同士が複雑に関わり合うことはあまりなく、一対一の関係性が個別に描かれただけ。たまにジャックとレディ・フェイといった関わりはあるものの、大体はマニーと誰かという関わり方ばかりだったのは残念なポイントです。
後半の地獄パーティーシーンでネリーのもとに向かうマニーがジャックとすれ違う場面はそれっぽかったですが、それぐらいだったので、この辺りの腕は今後の作品に期待したいところです。
キャスティングに難あり
この映画はそもそもあまり1920年代に見えないという問題があります。
特にネリーを演じたマーゴット・ロビーは1920年代のスターには全く見えず、現代のスターにしか見えません。
ネリー役は元々エマ・ストーンが演じる予定だったそうですが(スケジュールの都合で降板)、エマ・ストーンだったとしても1920年代のスターに見える気がしません。
主役の一人であるネリーが全く1920年代に見えないせいで、作品全体の1920年代感も薄れてしまっているのは問題だと思います。
ブラッド・ピットも1920年代のスターに見えるわけではなくブラッド・ピットに見えてしまうのですが、スター力とキャリアの重みがさすがにマーゴット・ロビーとは格が違うので、そこはブラッド・ピット力で個人的にはそれほどノイズにはなりませんでした。
昨年『バズ・ライトイヤー』(2022)という映画がありました。
『バズ・ライトイヤー』は「アンディがこの映画を観てバズのおもちゃを買った」という設定、つまり1995年の映画という体で作られた2022年公開の映画でしたが、一切1995年の映画に見えないという事態がありました。
しかし、「では忠実に1995年っぽい映画を作ったとして、それを2022年の新作映画として観て面白いのか問題」を昨年のポッドキャストで指摘しました。
『バビロン』も同様に、マーゴット・ロビーやブラッド・ピットが1920年代の人物に見えないからといって、仮にめちゃくちゃ1920年代の人物っぽく見える人に主演させたとして、今度は2022年の映画として画が持つのかという問題が生じます。多分持ちません。
ということで、まさに今のハリウッドスターに演じさせる必要があったことは容易に想像できますが、もう少し人選を頑張ってほしかったと思います。
なんならネリーのように完全に新たなスターを発掘するのだってありだったかもしれない。
ラストの映画史振り返りの是非
『バビロン』は映画の最後に、約50本(49本?)の映画史における重要作品が凄まじい速度で引用されます。
これははっきり言って「うるせー!」と思わざるを得ません(笑)。
ここで一気に、ハーバード卒の秀才デイミアン・チャゼルに映画史の講義をされた気分になってしまいます。しかもちょいちょい『バビロン』のカットも入れ込んでくるのはちょっと図々しくないでしょうか(笑)。
この50本のラインナップというのも真面目に一つ一つ見ていくと論争になりそうな作品が並んでいるし、「お前に選ばれても嬉しくねーよ」と思われること必至です。
『ラ・ラ・ランド』のエンディングでも似たようなことをやっていたし、チャゼル的には好きな演出なのかもしれませんが、本作においては正直余計だったのではないかと思います。
おわりに
個人的にはデイミアン・チャゼル作品はどれも結構好みで、いろいろ苦言は呈しましたが基本的には本作も大変楽しく鑑賞しました。
国内外問わず批評を見ていると「史実とあまりに異なる」「お前みたいなもんが映画史を語るとは生意気な」というような評され方もかなりしているようです。
史実通りではないでしょうが、なにもドキュメンタリーではないし、史実通りではないが評価されている作品はいくらでもあります。
それを言い出したら、ホロコーストという史実を扱っておきながら映画的なカタルシスのために大きく脚色が行われている『シンドラーのリスト』のような映画のほうが悪質ではないのか。
決して両者を同列に扱いたいわけではないので誤解してほしくはないのですが、今では超絶巨匠のスティーブン・スピルバーグがまだ若かった頃、どんなに頑張って技巧を凝らして映画を撮ってもあまり評価されなかったように、チャゼルがまだ30代であるという若さや、あるいはハーバード卒で長編デビュー作から映画賞取りまくりといった「映画エリート」感が、評論家たちにバイアスをかけさせてしまっている気が少々します。
彼も昔はいろいろ大変だったという、そんなスピルバーグの新作『フェイブルマンズ』が近日公開ということで、こちらもかなり映画賛歌になっている様子なので、『バビロン』と比較してみるのもいいかもしれませんね。
おわり
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